2010/2/8 Monday

月に行かない人類

Filed under: 日々徒然 — ono @ 12:06:20

先週、アメリカのオバマ大統領が、月・火星に人間を送り込む「コンステレーション計画」の中止を発表した。一方で民間の有人宇宙開発を促進するために、今後5年の間に60億ドル(約5400億円)の追加予算をNASAに与えることを決定した。

コンステレーション計画は、2004年(大統領選挙の年)にブッシュ大統領によって発表されたもので、2020年頃に月へ、そして2030年代に火星へ人類を送る計画であった。この計画には2025年までに2300億ドル(約21兆円)の予算が必要であると試算されていた[1]

僕が生きている間に、火星はおろか、人類が再び月に立つことも、ないかもしれない。

僕はオバマの決定を支持する。航空宇宙工学科の学生として、また子供の頃からの「宇宙マニア」として、思いは複雑だ。しかし宇宙開発が長期的に人類の進歩に貢献するためには、これこそが正しい判断であると思う。

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(Image courtesy of NASA)

冒険飛行家の時代

宮崎駿の映画「紅の豚」に、こんな台詞がある。

「冒険飛行家の時代は終っちまったんだ。国家とか民族とか,下らないスポンサーを背負って飛ぶしかないんだよ。」

ライト兄弟が始めて飛行機で空を飛んだのが1903年。航空工学の黎明期は、まさに「冒険飛行家」の時代だった。命知らずのパイロットが野心に駆られて粗末な造りの飛行機で空に挑み、距離や高度の記録を競い合った。1927年に初の大西洋単独無着陸飛行に成功したリンドバーグは世界のヒーローとなった。しかしそれは、航空工学の成熟の証であると共に、「冒険飛行家」の時代の終わりを告げる鐘ともなった。

同じ1927年、パンアメリカン航空が設立された。30年代に入ると、ダグラス DC-3、マーチン M130などの民間旅客機が数多く登場し、お金さえあれば誰でも大洋を越えて空を飛ぶことができる時代になった。第二次世界大戦は航空技術を飛躍的に進歩させたが、戦後も空の旅の大衆化と歩調を合わせて技術は進歩し、現在では金持ちでなくとも、ほんの一週間の休暇で世界中を旅行できる世の中になった。大洋を越えた人やモノの移動量は増加を続けており*1、地球はどんどん小さく、国境線はどんどん薄くなっていった。航空技術は確実に、人類の進歩に貢献した。

宇宙では〜永すぎた冒険飛行家の時代

一方、初めて人類が宇宙を飛んだのは1961年。それから49年がたった現在も、未だに宇宙では「冒険飛行家の時代」が続いている。宇宙を飛ぶのは数百倍の倍率から選ばれた特別な人間のみで、宇宙から帰ってくれば国のヒーローとなる。その代償は2%の死亡事故のリスクだ。スペースシャトルに乗る前に遺書を書く宇宙飛行士も多いという話を聞いた。宇宙飛行はまだ「冒険」なのである。

それなのに宇宙開発は49年間、常に「国家とか民族とか,下らないスポンサー」を背負い続けてきた。今まで宇宙に人を送り込んだのは、全て国が運営する宇宙機関である*2。産業と言う視点で見ても、宇宙は国に頼りっぱなしだ。日本の宇宙機器市場の規模は約2300億円(2007年)だが、そのうち官需(つまりJAXA)が93%を占める。約3.8兆円の市場規模を持つアメリカでさえ、官需が44%、軍需が20%だ[2]

その間に、宇宙開発は足踏みを続けてきた。アポロ計画以降、人間は高度たった500kmの地球周回軌道に留まり続けている。コストも一向に下がらない。7名の宇宙飛行士を地球周回軌道に運ぶスペースシャトルの一回の打ち上げにかかる費用は500億円から1000億円の間と言われている。現在までに7人の億万長者がロシアのソユーズ宇宙船を使って宇宙旅行をしたが、支払った金額は約20〜35億円だそうだ。

そしてこの高額なコストこそが、オバマが月・火星有人飛行計画を中止した理由である。NASAの試算では、コンステレーション計画は2025年までに2300億ドル(約21兆円)の予算が必要とされた[1]。不況の真っ只中で失業率が10%を超え、景気刺激のために莫大な財政支出が必要となる一方、税金は簡単に上げることができない。現在の人間社会は地球上の問題だけで手一杯なのだ。21兆円の月旅行のキャンセルは、常識的で妥当な判断と言わざるを得ない。

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(Image courtesy of NASA)

そもそも、宇宙のコストが下がらない根本の原因が、国が月だ火星だ宇宙ステーションだといって何兆円もの税金で自国の宇宙産業を甘やかし、宇宙開発を国営事業として抱え込み続けてきたことにあると、僕は思う。

国が宇宙開発を抱え込めば、競争が阻害される。例えば日本政府の宇宙開発戦略本部が2009年6月に決定した「宇宙基本計画」にはこう書いてある。「独自に宇宙空間に必要な人工衛星などを打ち上げる能力を維持するため、他国と同様、政府関係の人工衛星等を打ち上げる場合には、国産ロケットを優先的に使用することを基本とする。また、我が国の民間企業が人工衛星を打ち上げる場合にも、国産ロケットの使用を奨励する。」[3] 日本の宇宙産業を守るという視点で見れば自国のロケットを保護するに越したことはないだろうが、世界中の国が同じことをしていては、いつまでたっても健全な競争は起きず、産業は育たず、コストは下がらない。

まずもって、世界にはロケットの種類が多すぎる。宇宙ロケットの年間の需要はせいぜい数十機であろう。その小さな小さなパイを、アメリカのデルタ、アトラス、スペースシャトル、ロシアのソユーズ、プロトン、ヨーロッパのアリアン、日本のH-II、中国の長征、インドのPSLV、GSLVといった各国のロケットが奪い合っているのだ。ロケット一機種あたりの年間打ち上げ数は数回にしかならない。これでは規模の経済など働く余地もない。しかしどの国とも自国のロケットを保護するから、淘汰も決して起きない。コストが下がらないのは当然だ。

これを航空機産業と比べてほしい。大型航空旅客機の年間需要は1000機のオーダーである[4]。メーカーはボーイングとエアバスの二社に集約されている。主要機種の数も、両者合わせて10程度だ。機種あたり年間100機レベルの受注があれば、ラインを常時稼動させて流れ作業で生産することができる。競争があるから、両者は常にコスト削減と技術の向上にエネルギーを注ぐ。

H-IIロケットが競争に負けて淘汰されることは、日本にとっては悲劇だし、僕もそれを望まない。しかし各国が自国のロケットを守り続ける姿勢こそが人類にとっての悲劇であることを、我々は認識するべきである。

もっとも、国が自国の宇宙開発を守ろうとするのには理由がある。宇宙開発が軍事と表裏一体であるから。そして、宇宙飛行は国民を熱狂させ、国の誇りとなりうるからだ。いつの時代も、国はヒーローを必要とするのである。

国が宇宙開発を抱え込むもうひとつの弊害は、国の政策に大きく左右されてしまう点だ。宇宙のプロジェクトは10年単位の時間を要する。コンステレーション・プログラムに至っては、30年越しの計画だった。その間にアメリカの大統領は最低でも四回は替わる。不景気の波も数回は押し寄せるだろう。だから、もし仮にオバマが今回コンステレーション・プログラムをキャンセルしなかったとしても、次の不景気の時に、将来の大統領がどのみちキャンセルする可能性が高かったと思う。ならば、まだ大してお金を使い込んでいない現段階でのキャンセルは賢明だったといえよう。

余談になるが、1961年、ケネディー大統領は、「1960年代が終わる前に人間を月へ送り込む」と演説し、その言葉通りアポロ計画は1969年に人間を月に立たせた。短期間での目標達成は偉大な成功として語り継がれた。しかし僕は逆に、短期間の目標を設定したことこそが成功の主要因だったのだと思う。ケネディーが暗殺されずに64年の選挙で再選されていれば、任期は69年1月まであった。「1960年代が終わる前に」という言葉は、「自分が大統領でいる間に」という意味とほぼ等しい。さもなくば莫大な税金を要する月旅行計画など、政権が替われば簡単にキャンセルさせられてしまうからだ。事実、1969年に就任したニクソン大統領は、予算の削減のため、20号まで計画されていたアポロの月飛行を17号までで打ち切った。国営の宇宙事業は所詮、政治のツールのひとつでしかないのだ。

来るべき大衆宇宙旅行の時代

宇宙における「冒険飛行家の時代」は、アポロの月着陸と共に終わるべきだった。「国家とか民族とか,下らないスポンサー」に、49年も頼りきりでいるべきではなかった。オバマ大統領が月旅行をキャンセルし、予算を民間宇宙飛行の促進へ回したのは、とても健全な判断だと思う。

有人宇宙飛行が目指すべき方向は、観光だと僕は考える。需要は確かにある。バージン・ギャラクティック社が計画している「宇宙旅行」は、たった6分間の弾道飛行で2000万円もするにも関らず、既に300件の予約があるのだという。

野心的な試みも始まっている。その例が、PayPalを創業しIT長者となったイーロン・マスク氏が立ち上げた、Space X社だ。Space Xは「ファルコン」ロケットと「ドラゴン」宇宙船を自力で開発し、国際宇宙ステーションへの物資の補給に利用する予定である。将来的には有人宇宙船の開発も視野に入れている。

航空機が冒険飛行家の時代を経て、大衆旅行の時代になり、人々の「空を飛びたい」という夢を叶えたように、宇宙開発も冒険飛行家の時代を脱し、大衆の「宇宙に行きたい」という夢を叶える段階にある。そもそも宇宙飛行など、50年も前の技術だ。技術的には、民間で不可能な筈はないのだ。

そして、空の旅の大衆化がコストを引き下げ航空技術を発達させたように、自由な競争の下での宇宙旅行の大衆化は、打ち上げコストを引き下げ、宇宙技術をより安全で安定したものにするだろう。そうなれば、月や火星にも、現実的な費用と期間で行くことが可能になるだろう。その時こそが、人類が月や火星に向けて冒険を再開させるタイミングであると、僕は思う。

脚注

*1 たとえば日本では、この三十年間に、国際航空旅客数は6倍、国際航空貨物取扱量は10倍にも膨れ上がった。 http://www.mlit.go.jp/koku/koku_fr1_000001.html

*2 バート・ルータン率いるScaled Composites社が2004年に民間で初の「宇宙飛行」を達成したが、それはほんの一瞬(5分ほど)大気圏の外に出て、あとは投げたボールのように放物線を描いて落ちてくるだけの「弾道飛行」である。スペースシャトルのような地球周回飛行と比べて、技術的ハードルも必要なコストも格段に低い。

参考資料

[1] US Government Accounting Office (Report) “ Constellation Program Cost and Schedule Will Remain Uncertain Until a Sound Business Case Is Established .” Retrieved on February 7, 2010

[2] 日経ビジネス 2009年12.21-28年末合併号

[3] 内閣官房宇宙開発戦略本部 宇宙基本計画(案) Retrieved on February 7, 2010

[4] Boeing Current Market Outlook 2008-2009, Retrieved on February 7, 2010

UTADA “In The Flesh” 2010 @ Boston

Filed under: 日々徒然 — ono @ 2:21:54

「宇多田ヒカルがボストンでライブをするらしいよ。」

そんな話を友達から聞いたのが去年の11月。僕は取り分けて彼女のファンでもなかったのだが、折角だし一目見ておこうというミーハーな気持ちで、似たようにミーハーなMITの日本人の友達とチケットを買った。

会場は数百人規模の小さなライブハウス。チケットの値段は26ドル。日本ではスーパースターの彼女も、アメリカでは無名の新人扱いだ。ひねくれ者の僕は、「どうせ客はみんな日本人で、それなのにわざとっぽく英語でMCをし、それで日本に帰ったら『全米ツアーは大成功』とぶち上げるのだろう」などと思っていた。

そんな意地悪な予想は完全に外れた。冷やかしのつもりで行った僕は、すっかりウタダのファンになってライブハウスから帰ってきた。

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ライブ当日の2月5日金曜日は最高気温が氷点下4度。その寒さの中、開演の3時間前にはもうライブハウスの外に行列が出来ていた。客のうち日本人は半分程度で、残りは日本語ではない言葉を喋る人たちだった。テニスコート程度の広さのライブハウスには座席はなく、平らな一階のフロアを二階のメザニンが囲んでいる。横に長い造りなので、どんなに後ろに立ってもステージまで10メートルもない。所狭しと器材が並ぶ飾り気のないステージは、赤と青の弱い照明に照らされていた。僕らはビールを片手に、前座のDJ何某かが流すいまいち盛り上がらない音楽を聞きながら、ウタダの登場を待った。

じれればじれるほどファンは盛り上がる。誰かがキャーと歓声を上げると皆もつられてキャーと叫び、遂にウタダの登場かと目を凝らすのだが、彼女は現れない。そんなことが何度も繰り返されたのち、とりわけ大きな歓声があがり、紫のひらひらとした衣装を纏ったウタダが現れた。ステージの後ろの照明が彼女のソフトソバージュにした長い髪を明るく光らせた。歓声が止まないうちに演奏が始まり、僕の知らない英語の曲を数曲、立て続けに歌った。ハスキーな声、人見知りをするように時々斜めを見る癖、どうやらホンモノらしい。

「ついに東海岸に来たよ!ボストンに来たのは二度目なんだけど、学生が多くて、若々しい街で、ボストン大好き!」彼女がMCで話す英語は、日本語よりも自然で流暢かもしれない。「私もみんなのように学生だったんだけど、ドロップアウトしちゃったんだ。勉強がとても好きだから、既に(音楽の)キャリアがあったけどコロンビア大学に行った。でも大学に行ってみて、今いちばんやりたいことは歌を歌うことだってわかったから、やめちゃった。でもね、大学におばあちゃんの学生もいたから、私も歳を取ったら大学に戻れるかな。それが私の夢です。」
そう言ってウタダは照れ笑いをした。カッコをつけることも卑屈になることもない素直な話し方に僕は惚れた。

そして、ウタダは少し恥ずかしそうに言葉を日本語に切り替えた。
「今日はわざわざ日本から来てくれた人もいるんだよね。ありがとう!」
そう彼女が言うと、ウォーッとどこかの日本人が叫んだ。
「次は日本語の曲を歌います!」
客は日本人とそれ以外が半々だから、MCも英語と日本語を半々、曲も英語と日本語を半々。アメリカ・ツアーだぜ、というような気負いは全く感じなかった。

後半、“First Love” “Can You Keep a Secret” “Automatic”を続けて歌い、ライブはクライマックスに。やはり知っている曲だと楽しくなる。僕も他の客たちと一緒に体を揺らしながら歌った。客の誰かが大声で叫んでリクエストした「ボクはクマ」という曲を、歌詞を間違えながらも即興で演奏してくれた。アンコールの再登場に客は飛び跳ねて喜び、最高に盛り上がったところで、ライブはぷっつりと終わった。寒い屋外に放り出された後も、僕は興奮と余韻で酔っ払ったような気分だった。

かくして、冷やかしのつもりで行った僕は、すっかりウタダのファンになって帰ってきた。月並みな言葉だが、人を惹きつける何かを、あの小柄な日本人の子は持っている。日本で若くしてスーパースターになろうと、アメリカでは思うようにCDが売れなかろうと、そんなことはどこ吹く風、ただ自分の好きなことを貫いて生きるのだ、そんなブレのない意志が、彼女の人見知りをするような目の奥に感じられるからではなかろうか、そんな風に思った。

それに比べ、彼女と同い年の僕はどうだろう。将来への迷いは意志のブレの表れではなかろうか。27歳のモラトリアムは人を惹きつける要因たりえないだろう。どうも自分には「名を上げたい」という欲があるように思う。しかしその前に、「何をして生きたいのか、」その軸を、ブレなくしっかりと定めなくてはいけないのだ。そんなことを思いながら、未だに答えを見つけられない思い切りの悪い自分に歯がゆさを感じる僕は数百人の客の一人で、その10メートル先のステージで、ウタダがスポットライトと歓声を浴びながら、心から楽しそうな表情で歌っていた。

LA公演でのセットリスト。英語の曲はどれが何だったかよく分からないけれども、ボストンでもほぼ同じ曲目だったと思います。

2010/1/25 Monday

平和と貧困と幸福と 〜セネガル・ダカールにて〜

Filed under: — ono @ 12:22:27

外国の旅はたいてい、大都市から始まる。国際線のほとんどは国の中心都市の空港に着くからだ。スペインならマドリード、キューバならハバナ、モロッコならカサブランカ、そういった具合だ。今回の旅の起点となったセネガルの首都・ダカールも西アフリカ随一の大都市で、都市圏人口は250万を数える。

都市は単なる人間の集積ではない。都市には色がある。音がある。味があり、匂いがあり、温度がある。都市は外国人にとってはその国の顔であり、現地に住む人にとってはその国の心臓である。旅人がその国ではじめての一日をその都市で過ごす時、その国でのはじめての食事をその都市でする時、その国の人とはじめてその都市で話した時、その国について感じる何かがある。

例えば、二年前に訪れたベトナムのサイゴン(ホーチミン)。夕方に空港に着き、タクシーで市内へ入るやいなや、僕らは前後左右を凄まじい数のバイクに囲まれた。スーツを着た仕事帰りのサラリーマン、二人乗りのカップル、四人乗りの家族、あらゆる種類の人たちが、小さなバイクのハンドルを両手でしっかり握り、車などものともせず、ぶつかる寸前の車間距離で前へ前へと走っていた。まるで大河を濁流が流れ下るようで、その中で身動きが取れなくなった僕らのタクシーは、流れに呑み込まれんとする岩のようだった。安ホテル街でタクシーを降りれば、狭い道の両側に不揃いな高さや形のビルが壁と壁をくっつけてぎっしりと並び、見上げれば電線が縦横無尽に走っていた。おびただしい数の看板たちが肩と肩をぶつけ合いながら必死に自己主張をし、その下にある露店は夜遅くまで賑わっていた。フランス植民地時代に「東洋のパリ」と呼ばれたこの街から感じたのは、鞭を入れられた馬が全力で前へ駆けるような、躍動感に溢れるエネルギーだった。

しかし、「西アフリカのパリ」を自称するダカールからは、そんなエネルギーはあまり伝わって来なかった。むしろそこで感じたのは、のどかで、貧しいけれども平和で、そして少々退廃的な空気だった。

僕がダカールに到着したのは真夜中で、初めて街を歩いたのは、翌朝、ダウンタウンのガンビア大使館へビザを取りに行くときだった。馬車の時代から道路整備を怠ってきたからだろう、ダウンタウンの狭い道では、僕らが乗ったタクシーは人が歩く早さでしか進めなかった。それほど多くの人々が通りに溢れているから、街は賑わっているように見えるのだが、しかし何かが違う。人の半分は、道にシートを広げたり、首からカゴをぶら下げたりして何かを売っている。携帯電話のプリペイド・カード、日用雑貨、お土産など、品は様々だ。しかし売り手の数が過多で、どこも売れている気配がちっともない。そして残りの半分の人はといえば、手ブラで歩いている。彼らは何をしているのだろう?買い物をしているわけでもないし、物を売っているわけでもない。仕事に行くわけでも、仕事をしているわけでもなさそうだ。ある人は足を止めて友達と立ち話をし、ある人はおもむろに路肩に腰を下ろす。そして、そんな呑気な人たちの多くは、働き盛りの歳の男だった。

「この国ではね、失業率が45%もあるのよ。」
案内してくれた友人が教えてくれた。
「そして、税金を納めている人は5%しかいないの。」

ビザ申請と観光を済ました後、Medinaという、商店街と町工場街と住宅街が混然と一体になったような地区を歩いた。通りに溢れていたのは、散らかり放題のゴミの山、そこから放たれる悪臭、フラフラと歩くヤギたち、彼らが落として行く糞、そしてやはり、何をするでもなく店先に腰を下ろして友達と雑談に耽ったり、ヤギたちと共にフラフラと手ぶらで歩く、働き盛りの男たちだった。そんな人々の顔には切迫感も緊張感もなく、むしろ平和で穏やかな笑顔に満ちていた。道で少年たちがサッカーに興じているのはどこの国でも見かける光景なのだが、この街では二十歳を過ぎた青年たちも昼間から道でボールを追いかけていた。

コンクリートむき出しの状態で放置されている、建設途中の建物を頻繁に見た。働いている人が誰もおらず、工事を先に進める気がまるで無いようなものも多かった。工事中のまま、とりあえず完成している部分に人が住んでいる建物もあった。

人々の貧しさは言うまでもない。友人の話によると、この街では月給2万円の仕事にありつければ御の字だそうだ。どこの家族も失業者だらけだから、その薄給で大勢の兄弟や子供を食べさせなくてはいけないのだという。しかし一方で、ここよりは断然豊かな中南米と比べて、骨と皮だけになって死にそうな人を路上で見る頻度は、低いように思えた。助け合いの精神があるからだろうか、それとも、すぐに死んでしまうからだろうか。そういえばこの街では、老人をほとんど見かけない。

帰り道に歩いた街の西側の大西岸では、夕焼けがとても美しかった。イメージ通り、と言ったら失礼かもしれないが、セネガル人はスポーツが好きだ。海岸沿いの通りでは人が列を成してジョギングや散歩をしており、砂浜は群れて体操やサッカーをする人で溢れていた。そんな光景はとても平和でのどかだった。そして海岸は相変わらず、ゴミだらけだった。

平和で貧しい。旅から帰った後、セネガルとガンビアはどんな国だったかと聞かれれば、僕はそう答える。

事実、セネガルはとびきり平和な国だ。セネガルの殺人発生率(人口10万人あたり)は0.33 で、アメリカ(5.51)はもちろん、日本(1.10)よりも少ないのだ(2000年)[1]

戦争もない。アフリカには年中行事のように戦争をしている国が数多くあるが、セネガルは1960年に血を流すことなく独立を達成し、それ以降も、南部カサマンズ地方の独立紛争*1を除けば、一貫して平和が保たれてきた。複雑な民族構成を持つが*2、民族同士が銃を向け合うことはほとんどない。

そしてこの国には、アフリカでは珍しく、独裁も、恐怖政治もない。独立以降、クーデターも一度も起きていない。また、物価も比較的安定している。インフレ率は長らく一桁台に抑えられてきた。HIV感染率も1%[2]である。

もちろん、セネガルで平和と安定が保たれている理由のひとつには、金やダイヤモンドなどの奪い合いの対象になる資源が無かったこともあろう。しかしそれだけではなく、穏やかで争い事を好まない国民性も作用しているのではないかと思う。

そして、言わずもがな、貧しい。セネガルの一人当たりGDP(購買力平均)は1,600ドル[2]で、日本の20分の1である。これでもアフリカの中では悪くない方だとはいえ、国連が定義する後発開発途上国(俗に言う最貧国)のひとつに数えられる。人々は、自分が生きている間に自国が豊かになるという希望など持っていない。だからみんな国を捨てて欧米へ移住したいという、安直な夢を持つ。その方法は、前回の日記で紹介したBakaryのように欧米人の妻を探すか、大西洋沖に浮かぶスペイン領カナリア諸島へ木製の船で密航するかだ。

ベトナムも、かつては最貧国のひとつだった。泥沼のベトナム戦争が1975年に終わった後も、懲りもせずに中国やカンボジアと戦争を売ったり買ったりし続けたせいで、国土は荒れに荒れ、国際社会からの援助も途絶えた。社会主義に基づく計画経済も全く上手くいかず、文字通り貧しさのどん底に陥った。

しかし、1986年にドイモイ政策によって自由市場経済が導入され、1989年にようやく戦火が収まると、ベトナム経済は、春を待っていた芽が一斉に吹くように、目覚しい成長を始めた。実質GDP成長率は毎年7%を超え、アジア通貨危機も大きな影響を受けずに乗り切った。90年代初頭には約50%あったという貧困率は、2007年には15%[2]にまで減り、現在も中国に次ぐ成長率で発展し続けている。そしてその原動力となっているのが、道をバイクが濁流の如く駆け回る都市、サイゴンである。サイゴンは、南北に長い国土の南の端から、エネルギーに満ちた血液を、国中に力強く送り続けているのである。

思い返せば、我が国日本だって、お隣の韓国だって中国だって、惨々たる状況から出発したものの、平和と経済の自由という二つの条件が揃った瞬間に爆発的な発展を遂げた。一方、セネガルでも、平和と経済の自由という条件は50年前から揃っているのだ。90年代後半以降は年率約5%の経済成長を達成しているとはいえ、どうしてこの半世紀の間にもっと豊かになりえなかったのだろうか。東アジアで起きたような爆発的で継続的な発展が、どうしてここでは起きないのだろうか。サイゴンで感じた、明日を予感させるようなエネルギーが、どうしてダカールの街では感じられないのだろうか。

もちろん、その責任の多くは先進国にあろう。出稼ぎ労働者が来ることを拒み、自国の農業を保護するために農産物の輸入を渋る。溜め込んだ富の再配分を拒んでいるのだ。また、セネガルの人たちに言わせれば、過去の過酷な植民地支配のせい、と言うかもしれない。

しかし、それだけではない気がする。

少々乱暴な議論かもしれないが、ぼったくられたり怪我をしたりしながら一週間セネガルとガンビアを歩いた末に思ったのは、結局のところ、差は「文化」にあるのではないか、ということだった。勤勉を美徳とする文化。教育を重んじる文化。コツコツと計画的に貯金する文化。こうした、東アジアではあたり前の「文化」がこの国では希薄なことが、人々が豊かにならない根源的な原因なのではないかと思った。

この国の人たちは基本的に、とても穏やかで人が良い。しかし一方で、彼らが勤勉であるとは言いがたい。

先に書いたとおり、セネガルの失業率は48%[2]にも上るのだが、そもそも路上で暇そうにしている人のうち、誰が失業者で、誰がそうでないのかを区別することは難しい。

例えば、ダカールの外国人が住むアパートには大抵、ガードマンが五人くらいいる。しかしこんなに平和で安全な国ではさぞかし暇なのだろう、そのうち四人くらいは門の前に輪になって座り、お喋りをしている。家具工場を覗けば、やたらと沢山の男が中にいるのだが、鋸を引いたりカンナをかけたりして手を動かしている人は僅かで、木を押さえている人や(そもそも万力を使えば人が押さえる必要もない)、それさえもせずにただ突っ立っているだけの男も何人もいる。市場でも、路上の商売でも、買い手よりも売り手も数のほうが多く、暇な店員は椅子に腰かけ、「暇だねえ」と隣の店の店員と雑談をしている。

「ワークシェアリングをしているのだ」と言えば聞こえが良かろうが、暇を持て余している人が勤勉に働けば、商売を改善する余地があるように思えてならない。ガードマンはともかくとして、例えば家具に装飾を施せば商品の付加価値は高まるだろうし、市場で客引きをすれば売り上げは上がるかもしれない。そんな考えは、間違っているだろうか。

一方、「失業」していても、場当たり的に小銭を稼ぐ方法ならいくらでもあるように思う。この国では商売に店舗は必要ない。道にシートを敷いてモノを並べたり、首から大きなカゴをさげて歩き売りしたりすればよいのだ。初期投資はほぼゼロだから、仕入れるモノさえあればすぐに商売が始められる。恐らくは似たり寄ったりの商売をする人から仕入れて、ほんの僅かの利益を乗せ、別の似たり寄ったりの商売をする人に売るのだろう。だからダウンタウンの道は、買い手もいないのに、路上の商人ばかりでごったがえす。

モノを仕入れる現金がない人は、ゴミの山からペットボトルを拾う。それが僅かな金で売れる。ペットボトルもなければ、どこかでモノを頂戴してきて、盗難品市場に売るという手もあるそうだ。

労働意欲は薄くとも、彼らはいかんせん貧しいから、お金は喉から手が出るほど欲しい。かといって穏やかな性格からか、強盗殺人のような大きな悪事を働くことは極めて稀だ。しかし、小さな悪事や些細なウソで小銭を稼ごうとする輩ならいくらでもいる。彼らの標的は専ら外国人である。例えば、頼んでもいないのに勝手に道案内をして「ガイド料」を取る。すれ違いざまに「今日の帰りのバス代がない」などと思いつきの理由をこしらえて金を乞う。演技もウソも下手っぴで、相応に金額も微々たるものだ。

もちろん、小さな悪事すら働かずに、真面目に生きている人の方が多かろう。しかし彼らの商売は、失礼かもしれないが、何かにつけて安直で短視眼的だ。例えば、ダカールの魚市場は砂浜にある。小船が取ってきた魚を、浜に着いたらそのままその場で売るからだ。市場といっても、屋根も建物もない。港湾施設も一切ない、単なる砂浜である。浜には干からびた魚がうち捨てられている。昨日の売れ残りだろうか。それなのに漁師は取れるだけ取ってくるようで、乱獲で漁獲量が減っているのだという。ちなみにセネガルで最も外貨を稼ぐ産業がこの漁業だそうだから、余計に頭が痛い。


働く悪事の規模が小さいことと関係があるかどうかは分からないが、商売もどれも規模が小さい。ダカールのMedina地区に数多く並んでいる家具工場やクチュリエ(縫製所)は、全て二階建ての一軒屋に収まる規模の家族経営である。街と街を結ぶ交通の主役は、バス会社ではなく、7人乗りのSept-placeと呼ばれる乗り合いタクシーだ。これも、車の所有者の個人経営である。

大きなビジネスは専ら外国資本である。隣国の話になるが、ガンビアの大西洋岸に並んでいた外国人向けリゾートホテルの殆どは、レバノンやリビアから来た商売上手のアラブ人が経営しているそうだ。ダカールで泊めていただいた友人夫婦の旦那さんは世界銀行に勤めているのだが、セネガル人が稀に持ち込んでくるビジネスの案件は、計画性に乏しくてとても融資できるようなものではないことが多いそうだ。セネガル資本の大会社といえば国営電力会社のSenelecくらいなのだが、何度も賄賂を払わなくては電気が来ないそうで、この上なく評判が悪い。


(写真:Sept-placeの乗り場。いっちょ前に”gare routière”、英語にすれば”bus station”を名乗っているが、実態は単なる駐車場である。チケット売り場も待合室もない。人が掲げる看板を頼りに目的地へ向かう車を探し、ドライバーと交渉して、お金は直接現金で渡す仕組みだ。)

青年海外協力隊として、セネガルの田舎の村の学校で教育の改善に取り組んでいる女性と会った。彼女は「セネガル人は他力本願だ」と嘆く。隊員から何かを学ぼうとするのではなく、彼らに何かをやってもらおう、という受身の姿勢の人が多いそうだ。例えば、農業の生産性を上げるための技術を教えようとした隊員がいた。彼は二年間の任期の間に一生懸命指導して畑を改善したが、彼が帰るとすぐに元通りになってしまったのだと言う。彼女自身も、村人から「青年海外協力隊はお金をくれないから意味がない」などと悪口を言われたことがあったそうだ。

なんだかセネガル人の悪口ばかり言っているようで恐縮なのだが、もちろん彼らの中にも勤勉な人たちはいる。友人夫婦が贔屓にしているクチュリエ(縫製所)がその例だ。彼らは勤勉なだけではなく、とても器用だ。たとえば手持ちのドレスと同じものがもう一着欲しい時、生地を買って、そのドレスと一緒にクチュリエへ持っていく。すると数日のうちに、元のドレスと寸分違わぬ複製品を、三千円くらいで作ってくれるそうだ。

そこで友人夫婦が彼らの器用さと勤勉さを買って、蚊帳を作るように頼んだ。マラリアがはびこるセネガルでは、蚊帳は必需品なのだ。お手本がないので、寸法は図面を引いて渡した。しかし誤算があった。彼らは図面が読めなかったのだ。だから、指定した寸法とは数十センチも違うものが出来上がったそうだ。図面を読んでゼロから物を作る能力は、器用さとは全く別物のようだ。

蚊帳ならまだ、これでもいい。しかし、これでは車の部品は作れない。機械部品は精度が命だ。例えば、日本の工業規格であるJISの最も粗悪な等級でも、直径10cmの歯車に対して、最大0.125mmの誤差しか許されないのだ(JIS B 1702-1:1998)。そして当然、お手本もなく、図面だけを頼りに加工することを要求される。

日本では、小学校の算数で、立体図形の辺の長さやら展開図やらを嫌になるまで勉強させられる。製造業で豊かになった日本にとって、あの教育がどれほど大事だったかが、身に染みて分かった。

しかるに、日本では子供が親にこんな不満を漏らす。
「数学なんて将来何の役にも立たないから、勉強する意味なんてねえよ。」
それに対して、親はこう叱りつける。
「何言ってるの、ちゃんと勉強しなさい!」

それがセネガルでは逆のようだ。子供がこう言う。
「お父さん、学校で数学を勉強したいよ。」
それに対して親がこう叱る。
「数学なんて何の役に立つのよ。そんなものを勉強する暇があったら、畑を耕しなさい。」

だから学校は、親に子供を通学させることを納得させるために、「役に立つ」ことを教える。これは隣国のガンビアで聞いた話なのだが、学校の「理科」の授業では、物理や化学はいい加減に済ませ、代わりに農業を教えるのだそうだ。もちろんそれは短期的には地域経済に役立つことなのだが、それでは人は図面が読めるようにならず、製造業を担うエンジニアも育たない。とはいえ数学や物理のような「役に立たない」教科を教えようものなら、そもそも子供が学校に来ない。悩み深いジレンマだ。


(写真:セネガルのおバカな大統領 Karim Wadeが、24億円をかけてダカール郊外に建設中の像。自由の女神よりも大きいらしい。そんなお金があるなら道路などのインフラ整備に回せばいいのに。しかも建設を請け負ったのは北朝鮮の会社なのだとか。セネガル人を雇えば、一時的にでも僅かな雇用が生まれたのに。しかもしかも、この像による観光収入の3分の1は、大統領のフトコロに入るそうだ[3]。とはいえ、これでも選挙で大統領を辞めさせることができるだけ、他のアフリカの国よりもずっとマシである。)

なんだか今回の日記はセネガルやガンビアの人たちの悪口のようになってしまった。しかし強調しておきたいのは、前回の日記でも書いたとおり、彼らの殆どは根っからのいい人たちなのだ。しかし、少々要領が悪い。少々教育が足りない。少々怠け癖がある。少々考えが短視眼的だ。だから、彼らの狭い視野の中では精一杯にやっているつもりなのに、上手く行かないことが多いのだ。

今回の旅では本当に多くの人たちに親切にしてもらい、とても楽しい思いをした。セネガル人やガンビア人が好きかと聞かれれば、僕は迷いなく好きだと答える。そして繰り返すが、彼らの穏やかで外国人を分け隔てなく歓迎する性格は、この国の半世紀の平和と決して無関係ではなかろう。彼らの性格は、がめつく競争に勝ち抜いてお金を稼ぐよりも、平和にのんびり暮らす方が、適性があるのかもしれないと感じた。あるいは、少々意地の悪い言い方をすれば、小さな町工場にも1000分の1ミリの精度で機械部品を削り出せる技術者がわんさかいて、その誰もが週に60時間も働く国と同じレベルの豊かさをセネガル人が望むのは、彼らの性格や文化が根本的に変わらない限り、無謀な夢であるように感じた。一方で、もし彼らの性格や文化が根本から変わってしまったら、果たして現在のセネガルの穏やかな平和は保たれるのだろうか、とも思った。

そして、どんなにセネガルが今より豊かになろうとも、欧米との明らかな経済格差がある限り、セネガル人は自らを貧乏だと定義し、今の状態を不幸だと認識するのだろう。文化や人の性格が違えども、多次元座標上に存在する価値を、お金という一次元座標に投射して比較するのは、アメリカ人も日本人もセネガル人も同じなのだ。


(写真:Kaolackの町にて)

とても無責任な話だが、僕はこの国を缶詰の中に入れて封をしてしまいたい気持ちに駆られた。先進国からの情報も人の往来も全てシャットアウトして、ただ彼らに必要な食料だけを搬入する。そして、彼らの国よりも豊かな社会があることを誰も知らないようにするのだ。大西洋の対岸やサハラ砂漠の反対側には、多くの家庭が自動車を所有し寿命が80年もある社会があるということをセネガル人たちが一切知らなければ、多くの家庭が自動車は無いが携帯電話は所有し*3寿命が50年ある彼らの社会だって、貧しいとは思わないかもしれない。現状に満足して平和に暮らすほうが、もしかしたら幸せかもしれない。

もしこの議論に納得できなければ、次のような空想をしてみたらどうだろうか。現在の世界に突然ムー大陸が浮上して、そこにはどの家庭も「どこでもドア」を所有し、癌の治療法が確立されていて120歳まで生きるのが当たり前な社会があったとしよう。「どこでもドア」は1億円、癌の治療には10億円かかる。ムー国家は、不法労働者が自分の国に流れ込み、富が流出するのを防ぐため、日本人やアメリカ人たちに対しては旅行ビザすら決して発給しない。

そうしたら、日本人やアメリカ人はどう感じるだろうか。きっと自動車などという前時代的な移動手段を使っている我々の社会は貧しいと感じ、癌などという治療可能な病気で人が死ぬのは不条理だと感じるのではなかろうか。そして、そんな社会から抜け出せない自分は不幸だと、人は感じるのではなかろうか。ならば、絶対的な豊かさは同じでも、ムー大陸を知らない現在の日本人やアメリカ人の方が、それを知っている日本人やアメリカ人よりも幸せなのではなかろうか。

現実の世界へ話を戻そう。ムー大陸は存在せず、日本や欧米が世界で一番豊かな社会を実現している。そして、大西洋やサハラ砂漠はもはや情報や人間やモノの往来を阻む障壁ではなくなっている。セネガルの人たちは映画やテレビで欧米の豊かな暮らしを知っているし、欧米から来る観光客やビジネスマンは目玉が飛び出るほどの額の札束を財布に入れて持ち歩いていることを知っている。グローバル化する世界では、もはやどこの国も缶詰に入れて保存することはできない。

しかし、グローバル化は一方通行だ。先進国の人は途上国へ行くことが出来ても、途上国の人は先進国へ入るためのビザを取ることができない。先進国は途上国へ工業製品を輸出するが、一方で自国の農業を保護するために、途上国から農作物を輸入することを渋る。だからセネガルは失業者で溢れかえり、多額の貿易赤字に苦しむ。

ならば、もうひとつの極端な「解決策」が頭に浮かぶ。いち、にの、さんで国境を全て無くすことだ。全てのモノが関税無しに、全ての人がビザなしに世界のどこへでも行けるようにするのだ。そうすれば、先進国は平均的に今よりもだいぶ貧しくなり、途上国は今よりも少しだけ豊かになり、格差は減り、結果、不幸と思う人の数が減るのではなかろうか。資源分配はグローバルに最適化され、世界全人類の効用関数の合計値は増大するのではなかろうか。

しかしもちろん、そんな「解決策」は決して実現可能ではない。日本の農業が壊滅し、大勢の外国人出稼ぎ労働者が日本へ流れ込み、失業率が跳ね上がることを、日本人の誰が望むだろうか。豊かさは先進国の既得権益だ。それを守りたいと思うのはとても自然な人間の感情だ。だから先進国の人たちは、貯めた水が流れ出ないように、国境を壁で囲い、門を固く閉ざす。自分の権利を守ることの何が悪い、そう壁の内側から叫ぶ。少々の後ろめたさは、小銭を募金箱に投げ込んで解消する。これは決して非難ではない。僕も、恐らくあなたも、その立派な一員なのだから。

しかし、壁の存在は認めても、今の世の中は「正しくない」と感じ、少しでもそれを正しい方向へ向かわせるために地道に活動している先進国の人たちは大勢いる。「開発」という仕事に携わっている人たちだ。ダカールで泊めていただいた世界銀行に勤める友人。青年海外協力隊としてセネガルの田舎町で働いていた女性。ボストンの友人たちも、この冬にウガンダやバングラディシュで働いている。無力感に襲われることも度々あるだろうに、辛抱強く逞しく、途上国にも幸せな社会を実現しようと頑張る彼らを、僕は尊敬する。

彼らの努力が実り、セネガル人たちが自分の国で満足のいく生活を手に入れて、無謀なアメリカン・ドリームを抱かずに暮らせる日は、来るだろうか。


(写真:ガンビアとの国境・Karangの町にて)

旅はたいてい、大都市で終わる。僕はガンビアからダカールに戻り、モロッコのカサブランカを経由して、大西洋を越えニューヨークへ向かった。そして、そこから陸路でボストンに戻った二日後に、今度は太平洋を越えて東京へ飛んだ。

東京。これほど豊かな街は、世界でも珍しかろう。東京には、ダカールのような退廃的な空気はないが、かといってサイゴンに溢れていたような、前へ前へと突き進むようなエネルギーも感じない。感じるのは、飽和と閉塞の臭いだ。時間通りにやってくる電車に乗り込めば、疲れたサラリーマンはイヤホンを耳に突っ込んで眼を閉じ、OLは始終携帯電話でメールを打っている。皆、知らない人とは決して言葉を交わそうとしないから、車内は妙に静かだ。原宿のどのブティックの服がかわいいかを延々と議論する女子高生の二人組や、代ゼミのどの講師が一番「使える」かを延々と議論する男子高生の四人組の声が、やたらと目立って聞こえる。その中で、老人が、大きな紙袋を両足で挟んで、居心地悪そうに座っている。

素晴らしい社会だ。何と豊かで、満ち足りて、幸せな社会なのだ。セネガル人が見たらそう思うだろう。しかし、山手線に乗っていたサラリーマンやOLや、女子高生、男子高生、老人は、果たしてどのくらい幸せを噛みしめて生きているか。幸せへの感度が鈍り、幸せを幸せと感じなくなることがつまり、幸せなのだろうか。それとも、より次元が高い不満を見つけることが、幸せなのだろうか…。


(写真:モロッコ・カサブランカにて)

こんなことを長々と日記に書いて世の無常を悟った気になり、虚無感に浸ったところで、セネガル人を豊かにすることもできなければ、ビルの屋上から飛び降りようとしている日本人を救うこともできない。

しかし少なくとも、自分自身の生き方の指針ならば、この旅の経験から二つばかり導き出すことができた。

一つ目は、自分の幸せをしっかりと認識すること。そりゃ僕にだって小さな不満はいくらでもある。彼女もいないし、去年出した論文のいくつかがrejectされたし、運動神経がなく、安月給な上に、ボスは頑固だ。しかし、もちろん不満を解消するための努力は続けるが、その不満を我が身の不幸の根拠としてしまったら、それこそが不幸だ。そうじゃない。僕は幸せなのだ。安全な家に住み、食べ物にも困らず、五体満足で、いつも僕を案じてくれる家族がいて、誕生日を祝ってくれる友達もいて、世界で最高の教育を授かった。文句の付けようがない。僕は世界一幸せな人間じゃないか。そう思えるならば、本当に僕は世界一幸せな人間なのだ。

そして二つ目は、手元にある仕事をコツコツと計画的に頑張ること。もし国の成功が国民の性格に帰せられるならば、個人の成功がその人の性格に帰せられることはもちろんだろう。

どちらも当たり前のことだ。笑ってしまうほど当たり前のことだ。しかしこれを実践することは、そう簡単ではあるまい。

まずは自分が幸せになり、次に人生において成功し、そして日々の暮らしや仕事のなかで、自らの幸せを、少しずつ周囲の人にもお裾分けすることが出来たらいいと思う。

「見えぬなら 描いて見よう 青い鳥」 緒野雅裕


(写真:ダカールよりモロッコへ向かう機上で見た、サハラ砂漠の朝焼け)

脚注

*1カサマンズ地方は国の中央部との交通をガンビアに遮られ、半ば飛び地のようになっている。そこに住むJola族を中心とした武装勢力が、独立を求めて政府軍と散発的に衝突を繰り返していたが、現在は沈静化している。

*2他のアフリカ諸国と同じく、セネガルでも異なる言語を持つ多くの民族が入り混じって暮らしている。僕の目から見れば黒人はみんな同じに見えてしまうのだが、この国にはWolof(人口比率43%)、Fula(24%)、Serer(14%)、Tululor(10%)の四つの主要民族と、他にも無数の少数民族がおり、それぞれの民族はさらに細かい部族に分かれているそうだ[4]。また、同じ民族の中にもイスラム教徒とキリスト教徒が混在しており、複雑さに拍車をかけている。

*3少々意外に聞こえるかもしれないが、アフリカでは、大規模なインフラ整備が不要な携帯電話の方が、固定電話よりもよく普及している。セネガルで携帯電話を持つ世帯の割合は63%[5]にも上る。一方で、電気が届いている世帯の割合も、同じ63%[5]だそうだ。電気が届いている場所でも、停電は日常茶飯事である。なんだかいびつな経済発展のように思う。

出典

[1] Crime and Society, a Comparative Criminology tour of the world.

[2] CIA The World Factbook, 特に記載の無い限り2008年の統計

[3] BCC News - Senegal President Wade apologises for Christ comments December 31, 2009

[4] Lonely Planet - The Gambia & Senegal, Katharina Lobeck Kane, 2009

[5] Gallup World View, 2008年統計

2010/1/19 Tuesday

夢に見る

Filed under: しんみり — ono @ 21:46:10

飼っていた犬のチコちゃんが死んでもう五年が経つが、未だに夢に見ることがある。

今朝がそうだった。僕はリードを引いて、チコちゃんと一緒に山手線の電車に乗った。車両の端の三人掛けの席の、ドアに一番近い場所に座り、ドアの脇の手すりにチコちゃんのリードを結びつけた。チコちゃんは鳴きもせずにいい子でお座りをしているので、僕は安心して寝てしまった。

はっ、と目を覚ますと、降りるつもりの駅だった。慌てて席を立ち、「チコちゃん、降りるよ!」と言って足元を見ると、そこにチコちゃんの姿はなく、繋ぎ止める相手を失ったリードは手すりからだらりと床に垂れていた。僕は慌てた。「チコちゃん!」と叫び、車内を見回し、見つからず、ホームに飛び出し、見回し、見つからず、発車ベルが鳴り、ドアが閉まろうとした時、隣の車両の座席の上に、チコちゃんがお座りしている姿が、ふと目に入った。僕は閉まりかけていたドアをこじ開けて元いた車内に戻り、隣の車両との間のドアを開けると、寂しがり屋のチコちゃんは、キャンと鳴いて一目散に僕の胸に飛び込んできた。手足をじたばたさせて嬉しさを表現するチコちゃんが車両と車両の間の隙間に落ちてしまわないか心配で、僕は両手で必死にチコちゃんを押さえつけた。両手で触れるチコちゃんの毛の感触。僕の顔に何度もぶつかってくるチコちゃんの濡れた鼻の頭。僕も嬉しくて嬉しくてたまらなかった。

そして、そんな激しい感情に揺すられて、僕は目を覚ました。チコちゃんのいない現実の世界へ。ここがボストンの一人暮らしの寮の部屋で、チコちゃんはもう死んでいるのだいうことを思い出すのに、若干の間を要した。胸に大量に放出された黄色く暖かい化学物質はまだ残っていたが、現実を理解した後は、その残留物質は僕に嬉しさの代わりに空虚な気持ちを与えた。時計を見れば、起きるつもりの時間の三十分前だった。

僕は夢の続きが見たくて、もう一度眠りに入ろうとしたが、眠ることはできなかった。だから、この夢の記憶が薄れないうちに、それを文章に書き留めることにした。

こうして僕は、夢と現実の間を毎日往復し続けるうちに、再会の喜びと喪失の悲しみを何度も何度も何度も繰り返す。しかしそれでも、こんな身近に、しかも写真などではなく五感を伴って死者と再会できのは、とても嬉しいことだ。

これからもチコちゃんには気兼ねなく、僕の夢に会いにきて欲しい。

追記: この日記を書き終え、アップロードした後、ふと気付いた。今日、まさに今日が、チコちゃんの、五度目の命日だ。

2010/1/13 Wednesday

Smiling Coast のAmerican Dream 〜 Gambiaにて

Filed under: — ono @ 17:18:03

奴隷海岸、笑顔海岸

奴隷海岸、象牙海岸、黄金海岸、胡椒海岸…。そんな名前が、かつて西アフリカ各所の大西洋に臨む海岸に付けられていた。大航海時代以降にヨーロッパの商人が西アフリカ沿岸へ押し寄せたときに、それぞれの地域の主要な「産物」に応じてこうした名前が付けられたのだ。Slave Coast、奴隷海岸といえば一般的にはトーゴからナイジェリアの沿岸を指すが、僕が今回旅したセネガルやガンビアの海岸からも、約五百万人の黒人奴隷が船に積まれて南北アメリカ大陸へ「出荷」されたという。

そんな時代から数百年が経った。奴隷隷貿易は昔話となり、アフリカ各国がヨーロッパの植民地支配から脱した今、ガンビアの人たちは、自国の海岸を、誇りを持って、 “Smiling Coast” (笑顔海岸)と呼ぶ。

ゴレ島、奴隷商人の家
(写真:ダカール沖に浮かぶゴレ島には奴隷貿易に使われたという商館が残っており、世界遺産に指定されている。)

Smiling Coastの住人たち

朝7時にセネガルの首都・ダカールを発った僕は、ボロボロの乗り合いタクシー*1と今にも沈みそうなフェリーを乗り継ぎ、8時間かけて、アフリカ最小の国であるガンビアの首都・バンジュールに着いた。ダカールは人口が百万人を越える大都会であったのに対し、こちらの首都は人口三万五千人の田舎町だ。二階建ての民家のような建物に”Ministry of Industry” (産業省)という看板がかかっていたり、「7月22日広場」という、独立記念日を冠した仰々しい名前の広場が単なる芝生のサッカー場だったりと、なんとも牧歌的な雰囲気が漂う。特筆すべき観光地も全く無いので、大抵の外国人旅行者はこの町を素通りしてリゾートホテルが集まる大西洋岸へ向かうのだが、一人旅のバックパッカーにリゾートなど無用だ。僕はこの町にガンビア初日の宿を取ることにした。

バンジュールの港
(写真:ガンビア川の河口は幅が10kmもあり、瀬戸内海の最狭部よりも広い。そんな大河を過積載のおんぼろフェリーで渡ると、ガンビアの首都・バンジュールに着く。)

ホテルを見つけ、荷物を降ろし、夕涼みに川沿いの砂浜へ出ると、そこには街中よりもずっと多くの老若男女が群れていた。三分の一の人はサッカー。三分の一の人はジョギング。残りの三分の一の人はビーチに座って友達と駄弁っている。当たり前だがほぼ全員が黒人で、稀にいる観光客も大抵白人だから、アジア人の僕が歩いていると、兎に角、目立つ。100メートル歩くごとに声を掛けられ、有名人になった気分だ。ただし、初めの一声は決まって「ニーハオ」である*2。だから、”No, I’m Japanese!!”と訂正するところから会話が始まる。この国では日本の評判はすこぶる良いようで*3、僕が日本人だと分かると「座って話していけ」と大歓迎される。ガンビアは英語が公用語なので、会話にも困らない。

“Welcome to the Smiling Coast!” (笑顔海岸へようこそ!)と、彼らは笑顔で言う。初対面の僕に”my friend”や”my brother”と呼びかける。初めは慣れないが、これが彼らの距離感なのだ。そして必ず、”How do you like Gambia?”(ガンビアは気に入ったかい?)と聞く。いい国だ、と答えてやると、彼らは喜んで思い思いの方法でもてなしてくれる。「食え」とよく分からない物を食べさせられ、「聞け」と耳にイヤフォンを突っ込まれてレゲエを聴かされ、「来い」と家に招待され、「蹴れ」とサッカーの試合に参加させられる。

バンジュールの砂浜

おおよそ、ガンビア人の男の脳みその半分は音楽に、半分は女のことに占められているようだ。後者は全世界共通なので特筆すべきことはない。ただ、ムッツリスケベが多い日本人に比べて、ガンビア人はとても素直である。音楽の方はというと、若者はみんなレゲエとヒップホップに夢中だ。英語圏なのでアメリカやジャマイカの曲を好んで聞く。ちょうど僕がガンビアを訪れた週末に、レゲエ界のカリスマ・Lucianoがジャマイカからこの小国へやってきてライブをするそうで、それはもう国中が大騒ぎだった。あらゆる場所にポスターが貼られていて、誰と話してもLucianoの話題が出ないことはなかった。

この国では外国人観光客は女の子に滅法モテる。女の子の方から電話番号を聞かれたことが、果たして今までの僕の人生で一度でもあっただろうか。「私をガールフレンドにして」と短刀直入に言われることさえある。その意図が何であれ、悪い気はしないものだ。人生に三度しか来ないという「モテ期」の一回を使ってしまったのではないかと心配になる。

散歩を終えた帰り道、Pacoという名の、外国人向けレストランでウエイターをしている気立ての良い兄ちゃんと仲良くなった。僕が密かに「ガンビアン・慶応ボーイ」とあだ名した彼には五人のガールフレンドがおり*4、六匹の犬を飼っている。いかつい体格に似合わず、柔らかい声で爽やかに笑う。ヒップホップ狂で、喋り方も歩き方もなんとなくリズミカルだ。彼の友達の家で「ベネキン」というガンビア式チャーハンをご馳走になり、その後は仲間一味と共にバーへ酒を飲みに連れていってくれた。

Paco - ガンビアン・慶応ボーイ
(写真:こいつがガンビアン・慶応ボーイ)

Bakaryのアメリカン・ドリーム

翌朝、僕は、ガンビア川を首都Banjulから50kmほど遡った場所にあるBintang Bolongという町へ、チャーターした車で向かった。運転手はBakaryという名の28歳の青年で、普段は外国人向けリゾートホテルで働いているそうだ。さすがは主要産物が笑顔であるSmiling Coast、彼も気持ちよく笑う陽気な男で、未舗装の道路を土煙を巻き上げて走る二時間半の行程の間、話題が尽きることがなかった。サッカーが好きだそうで、ヨーロッパのクラブチームでプレーしているガンビア人も沢山いるのだと誇らしげに語った。「カンフーと空手」を習っているそうで、二つの格闘技を混同している気配がプンプンするのだが、流派は一応、「セイドーカン」だそうだ。イスラム教徒の彼はとてもピュアで真面目な性格で、死んだ父からいつも「良い友達を持て、そして友達には分け隔てなく優しくしろ」と言われて育ったのだという。

Bakary
(写真:Bakaryとオノマサヒロ)

ガンビア人と話すと決まってガールフレンドの話になるのだが、彼には一人も彼女がいないらしい。こいつは慶応ボーイではないようだ。
「ガンビアで彼女を作るなんて簡単さ。でもいい子を捕まえようと思うと、お金が必要なんだ。」
なるほど、さてはこいつ、高望みしすぎなのだな。そう思い、どんな子が好きなのかと聞いた。すると彼は唐突に、アメリカ人かヨーロッパ人のガールフレンドが欲しい、と答えた。
「欧米人を嫁に貰って、アメリカかヨーロッパに移住したいんだ。それで、1年か2年に一度、嫁と子供たちを連れてガンビアに戻ってくるんだ。そんな暮らしが俺の夢なんだ。」

そして、陽気だった彼は急に真面目な口調になり、こんな過去を語った。昔はガンビア人の子と付き合っていた。いい子だった。でも、その子をヨーロッパ人の男に横取りされた。とても悲しかった。しかしヨーロッパ男はすぐに、あっさりとその子を捨てた…。

彼はそれ以上の詳細を語らなかった。急に重たくなった空気に、話しが暫く途切れた。その間に僕の想像力は、次のようなストーリーを組み上げた:

***

Bakaryが付き合っていたのは、彼が普段働いている外国人向けのホテルの同僚の子だった。ある日、そこへ休暇で泊まりに来たヨーロッパ男が、この国ではやたらとモテることに気を良くし、旅の開放感に任せて彼女を誘惑した。彼女にもきっと、この男と結婚すればヨーロッパに移住できるという打算があったのだろう。だから彼女はその誘惑に乗り、Bakaryを棄てた。しかしヨーロッパ男には彼女を嫁に取って帰ろうという考えなど、さらさらなかったに違いない。おそらく彼は、彼女とセックスに耽る時、コンドームをつけることを忘れなかっただろう。

やがて1ヶ月の休暇はあっという間に過ぎ、ヨーロッパ男が国に帰る日が来た。彼は帰国日を彼女に教えていなかった。早朝、彼女に見つからないように、逃げるように空港へ向かった。その後、何も知らない彼女がホテルへ出勤すると、ヨーロッパ男は既にチェックアウトした後だった。

そしてそんな経緯を、同じホテルで働くBakaryは傍から複雑な想いで眺めていた。彼女が棄てられたとき、彼はヨーロッパ男に激しい憎悪を燃やしつつも、決して彼女を赦さなかった。傷口から流れ出る真っ赤な血がやがて黄色く膿むように、彼の純粋な失恋の悲しみは屈折した願望へと姿を変えた。彼女の代わりに、俺が欧米人の妻を娶ってやる、と…。

***

Bakaryが僕に何やら話しかけてきて、僕の空想は途切れた。彼の口調は陽気に戻っていて、また尽きない話が始まった。しかし、彼がやたらとアメリカの暮らしについて質問してくるのが気になった。
「アメリカ人での暮らしは楽しいか。」「どんなものを食べるのか。」「みんな車を持っているのか。」
彼の欧米へ移住したいという願望は、もちろんヨーロッパ男への復讐心からのみではあるまい。他の多くのガンビア人たちと同様に、欧米へ行けば楽しく幸せに暮らせるだろうと純粋に信じているのだ。そんな無邪気なアメリカン・ドリームが彼の質問の裏に透けて見える度に、僕は複雑な気持ちになり、何と答えたらよいのか分からなくなった。

ガンビア川南岸の道

そう、僕は今、アメリカに住んでいる。彼の「夢」に住んでいるのだ。思い返せば、キューバでも、メキシコでも、ニカラグアでも、人々の目はいつもアメリカへ向いていた。アメリカへ行きさえすれば幸せになれると思っていた。そんな単純で抽象的なアメリカン・ドリームは、過去の日本において、現世に希望を持てない貧しい農民たちが、極楽浄土へ行くことを願い必死に念仏を唱えたのと、似てはいないだろうか。

そして僕はボストンの街で、アメリカン・ドリームの成れの果てを沢山見てきた。それはマクドナルドの店頭に、バスやタクシーの運転席に、清掃中のトイレの中に、いくらでも見出すことができる。アメリカへ念願叶って移民してきた人たちが、夢の地で手に入れる肩書きは「低賃金労働者」だ。貧しいだけではない。彼らは社会の嫌われものだ。アメリカ人の保守的な人たちは、自らの祖先も移民だったことを棚に上げ、スペイン語やアラビア語、中国語を喋る新しい移民たちに対してあからさまな敵意を抱く。過去に差別されてきたアフリカ系アメリカ人でさえ、彼らの職を奪う存在として、新しい移民を快く思っていない人が大勢いる。

訛った英語で低賃金労働に就く移民たちの顔に、Smiling Coastに住むガンビア人たちが皆持っていたような穏やかな笑顔を見つけることは難しい。彼らの多くは労働に喜びも誇りも持っていない。彼らの顔はいつも、不満、不満、不満で歪んでいる。舌打ちをしながらハンバーガをトレイに載せる。電話越しに誰かと言い争いながらタクシーを運転する。安月給で自分をこき使う白人の上司、文句の多い客たち、アメリカの政治、社会、文化、そんな周囲のあらゆるものに対して不満を見出す。

アメリカに移民して豊かで幸せな暮らしを手に入れたければ、手に職を付けて行くほかない。エンジニア、看護婦、アスリート、音楽家、なんでもいいから、アメリカが欲しがるような技能を身につけて移民しなければ、アメリカは彼を歓迎しない。それは日本だってヨーロッパだって同じだ。しかし、28歳のBakaryが持つ技能といえば、せいぜい車の運転くらいだろう。彼が今から数学と物理を勉強してエンジニアになれるか?今からピアノを始めて、ブルーノートでデビューできるか?無理だ。絶望的に無理だ。彼は檻から出られない。たとえ檻から出られても、囚人服を脱ぐことはできない。そんな彼の未来が僕には見える。彼には見えない。彼はいつまで、アメリカン・ドリームを抱き、手近な恋愛を拒否して欧米人の嫁を見つけることに心血を注ぎ続けるのだろう。何たる社会の残酷さ、不条理さよ。結局、僕が彼にしてやれたのは、車を降りたあとにチップを少し多めに渡すことだけだった。

ガンビア人の昼食

What a Wonderful World

18世紀、西アフリカの黒人たちは、奴隷として無理やりアメリカに連れて行かれた。21世紀、同じ場所に住む黒人たちは、アメリカへ渡ることを自ら切望し、その夢をアメリカに拒まれるのだ。

そんな歴史の皮肉を知ってか知らずか、Smiling Coastの住人たちは、大西洋の向こう、アメリカの方を眺めつつ、無邪気で呑気な笑いを浮かべながら、砂浜に友人とたむろし、レゲエを聴き、ボールを蹴り、今日も白人の嫁さんは見つけられなかったなぁとぼやき、そうして一日、一日、一日を生き、50歳で死んでいく。

大西洋のこちら側、アメリカ合衆国の人たちも、そんな歴史の皮肉を知ってか知らずか、貧しい人も、富める人も、今自分が持っているものを失う恐怖に背中を押され、もっと多くを得る欲望に魅かれ、大西洋の向こうにも太平洋の向こうにも目をくれず、次から次へと沸いてくる不満の山を両手で必死に掻き分けながら、人生の目標を掲げ、競争相手に勝つことに執念を燃やし、そうして一日、一日、一日を生き、目標を達成したか、していないか、いづれにせよ、80歳で死んでいく。

どちらが「良い」のか、絶対的な基準はない。しかし事実として、ガンビア人も、アメリカ人も、前者よりも後者の生き方を望む。僕も、僕の多くの友人達も、後者の生き方を選ぶ。そこに価値基準が生まれ、その勾配ベクトルは確かに前者から後者を指し、よって解は収束し、世界が形作られる。

それが、僕が生き、僕が旅して、僕が死んでいく世界なのである。

注釈

*1 セネガルとガンビアには鉄道網やバス網がほとんど整備されていないため、長距離移動は専ら、この”sept-place”と呼ばれる乗り合いタクシーに頼ることになる。スピードメーターさえまともに動く車が稀なのだから、いはんやエアコンなど動くことを期待できようか。だから、車内の熱気を逃がすために窓を全開にして走るのだが、そうすると未舗装の道から巻き上がった土煙が容赦なく車内に舞い込んでくる。ティッシュで鼻を押さえる以外に対処のしようがない。また、悪路を伸びきったサスペンションで走るので、揺れが半端なく、セネガル人でさえ吐いていた。僕はといえば、赤ちゃんの頃、両親がエアコンのない車のチャイルドシートに僕を縛り付け、アメリカ中を走り回ってくれたお陰で、乗り物酔いに対しては完璧な抵抗がある。自信がない人は酔い止めを忘れずに。また、途中にトイレなど一切ない。しかしこれはある意味、どこでもトイレであるということだ。尿意を催せば、運転手に告げれば、いつでもどこでも止まってくれる。私もついでにと車を降りた客たちは、男も女も100メートルくらいずつ離れてサバンナにしゃがみ、「座りション」をするのがこの国での流儀だ。男は問題なかろうが、女性の方は練習していくとよいかもしれない。

*2 彼らは「ニーハオ」と言っているつもりなのだろうが、訛りのせいで「ニーホン」と聞こえる。しかし断じて「日本」と言っているのはない。すかさず訂正しよう。また、日本人だと言うと喜んで、「アチョー」と叫んでカンフーの構えをする奴が時々いる。カンフーと空手の違いを説明するのも手間なので、そういうときは、寛大に「アチョー」と付き合ってやればよい。

*3 日本の評判がよい理由は、この大陸では過去に特にこれといった悪事を働いていないことに加え、JICAが行っているODA(政府開発援助)が広く認知されており、とても感謝されていることもあるようだ。例えば、日本のODAで、ガンビアに製氷工場が四つ建てられたそうだ(自称、JICAの日本人の運転手のおじさんから聞いた話)。氷が手に入るようになったことで、沿岸地域で取れた魚が、内陸まで腐らずに運べるようになったという。いい事をしているじゃないか、日本!

一方、残念ながら中国の評判はすこぶる悪い。セネガルやガンビアで中国も多額の援助を行っているが、現地の人を雇用せず、中国から労働者を大挙して連れてきて働かせるため、地域経済に貢献していないからだと、ダカールでお世話になった世界銀行の友人が説明してくれた。我々は、この事実を感情的な中国批判の根拠に使うのではなく、日本が今後もアフリカで歓迎され続けるために何を為すべきかを考える根拠にするべきだ。加えて、セネガル・ガンビアを旅行中は、中国人だと勘違いされたら、すかさず日本人だと訂正しておくほうが、災難に会う確率を減らせるだろう。

*4 セネガルやガンビアでは一夫多妻制のため、お金を持っている人が複数の妻や彼女を持つことは、珍しいことでも、非道徳的なことでもないようだ。

2010/1/1 Friday

謹賀新年

Filed under: 日々徒然 — ono @ 18:04:14
明けましておめでとうございます。

2009/12/27 Sunday

ダカールの風景

Filed under: — ono @ 18:29:49

アフリカ旅行も明日で終わりです。たった一週間の旅なのに、手元の旅日記はすでに15ページ、二万字に。この膨大な量の経験や感情や思考をまとめるのは帰国後にして、とりあえずは、旅の出発点であり、時間の約半分を過ごしたセネガルの首都・ダカールの写真をアップロードします。

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ダカールは大都会。道路を作らずに街が膨らんでしまったから、渋滞がひどいのなんの。

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この国では車よりヤギのほうが強いようです。

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市場。

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ゴミをゴミ箱に捨てる習慣がないと、大西洋の夕景もこうなります。

2009/12/16 Wednesday

冬の散歩道

Filed under: 日々徒然 — ono @ 23:33:45

Time, time, time, see what’s become of me
While I looked around
For my possibilities
(時、時、時よ、僕を見てくれ
自らの可能性を追い求めているうちに
どんな風になってしまったかを)

就職活動を始めた。卒業まであと一年半、日本に帰るかアメリカに残るか、そもそも就職するか研究を続けるのか、道を迷いに迷っている真っ只中だ。だからこそ、自分にどのような可能性があるのか見極めたく、就職活動を早めに始めることにしたのだ。11月の週末に日系企業が大挙してやってくる「ボストンキャリアフォーラム」というイベントがあった。慣れないスーツにネクタイで首を絞め、他の大勢の同じ格好をした就活生たちに混ざった。

I was so hard to please
But look around, leaves are brown
And the sky is a hazy shade of winter
(僕は満足などできない人間だった
でも周りを見てごらん、木の葉は茶色
そして空には霞んだ冬の陰)

MITへ来た頃、将来の夢は単純明快だった。宇宙開発の現場で働くこと。しかしやがて、政治に振り回される宇宙開発の現実を思い悩むようになり、それが本当に自分の一生をかける価値のある仕事なのか、疑問を抱くようになった。日々の仕事がどんなに楽しくても、それを40年続けた後に過去を振り返って、これが世の中の何に役に立ったのだろうと虚しさを感じるようなことだけはしたくない。

生きがいが欲しい。自分はこのために生きているのだと本音で堂々と言いたい。客観的に定義され得る存在価値が欲しい。毎日を、惰性ではなく、目的を持って生きたい。そして死ぬときは自分の人生に満足して死にたい。

Hear the Salvation Army band
Down by the riverside, it’s bound to be a better ride
Than what you’ve got planned
Carry your cup in your hand
(救世軍バンドの演奏を聴きながら
河原を歩けば、君の計画よりも
気分の良い散歩道になるだろう
コップを片手に持ちながら)

就職面接では、自分がその会社にどう貢献できるかを明快に説明できるように準備しておけ、と先輩にアドバイスされた。だから僕は、十の会社に対して少しずつ異なる十の答えを用意した。もちろんそれらは全て、嘘偽りない自分の本心である。しかし一方で、それらは自分のほんの一部分でしかないとも感じる。自分を切り売りしているような感覚がふとしてしまった。そして、たとえその十個の答えの和を取っても、依然自分の全てはカバーされていないと思う。いや、待て、「自分の全て」とは一体なんだ?それを表現しきったことが、今までに一度でもあったか?

And look around, leaves are brown now
And the sky is a hazy shade of winter
(周りを見てごらん、木の葉は茶色
そして空には霞んだ冬の陰)

昨年就職活動を終えた友人を捕まえて、「なにか、日々の仕事が楽しくて、やりがいがあって、俺が持っているものを全て生かせるような仕事はないかなあ」と軽い口調で聞いた。
「そんなん、あるわけねえよ」と、彼は投げやりに答えた。

ウクライナ人の友達がいる。彼女はMIT数学科の学部を卒業し、数年間ウクライナの故郷の町の通信会社で働いた後、MITの大学院に戻ってきた。その通信会社の仕事は面白かったか、と聞くと、彼女はこう答えた。「あの場所ではね、仕事の選択肢がほとんど無いから、面白いか面白くないかなんて問題じゃないの。生きるために働く、ただそれだけよ。」

Hang on to your hopes, my friend
That’s an easy thing to say, but if your hope should pass away
It’s simply pretend
That you can build them again
(「希望を絶やさぬのだ、友よ」
そう言うのは容易いけれども、もし希望が消え去ってしまったならば
もう一度希望を作り上げられるようなフリをすればいいのさ)

どの会社の採用担当の人たちも、自分の会社の素晴らしさを僕に熱心に説く。それを聞くうちにその会社で活躍する自分のイメージが湧いてくる。しかし一方で、社会人の先輩や友達と飲みに行けば、ほとんどの人は多かれ少なかれ現在の仕事への不満を並べる。それを聞くうちに、その会社で煮え切らないモチベーションのまま日々の仕事に追われ、人生を浪費していく自分のイメージが湧いてくる。とはいえ採用担当の人たちもきっと、友人と飲めば上司や組織への不満をぶちまけるのだろう。僕の先輩や友人たちもきっと、就職面接の場では学生に我が社の魅力を語るのだろう。当たり前じゃないか、本音と建前を使い分け、建前から本音を見抜くのが世渡りだ。自己の分断と多面性の獲得こそが社会人たる必要条件だ。ナイーブな思考は用を成さないのだ。

Look around, the grass is high
The fields are ripe, it’s the springtime of my life
(周りを見てごらん、草は高く生い茂り、
大地は豊かに実る。今こそ僕の人生の春なのだ)

ある会社の面接の対策を練るために、そこで働く友人に「どのような人材を求めているのか」「どういうアピールの仕方は受けるか」などを事細かに質問した。するとすぐに下心を見抜かれ、
「マジメに色々考えているようなら、小野らしくないな。つまんない男になってないか?大丈夫か?」
と言われてしまった。

ある知り合いに、彼が昔働いていた会社について電話で話を聞いた。すると、「小野さんがあそこで働くなんて勿体ない。もっとでかいことをしなさい。」そう諭された。でっかいこと。具体性が皆無なこの言葉ほど、僕の心を魅了するものはない。「でっかいこと」をすれば、僕の人生は満たされるのだろうか。

Seasons change with the scenery
Weaving time in a tapestry
Won’t you stop and remember me
At any convenient time
(季節は風景と共に移り変わり、
時間をタペストリーの中へ織り込んでゆく
暇なときにちょっと立ち止まって、僕のことを思い出してくれないかい?
いつだっていいからさ)

ある会社のディナーに招待され、その席で「十年後の目標は何か」という話題になった。若手社員たちは、先輩社員を指して「○○さんのようになりたい」などと答え、学生たちは「早く仕事を覚えて一人前になりたい」などと答えた。順番が回ってきたとき、何も考えていなかった僕はとっさに”I’m going to be a big man (でかい男になる)”と答えた。ひとりの女性社員が”That’s just a big mouth(単なるビッグ・マウスよ)”と冷たく笑った。

Funny how my memory slips while looking over manuscripts
Of unpublished rhyme
Drinking my vodka and lime
(笑っちゃうよな、未刊の詩の原稿を眺めているうちに
僕の記憶は途切れ途切れになるんだ
ウォッカ・アンド・ライムをあおりながら)

別の会社のディナーで、非常に親身になって話してくれた高い役職の社員がいた。NASAへ行く気はないのかと彼に聞かれ、僕は本心のままに宇宙開発に対して抱くジレンマを話した。すると彼は、映画「踊る大走査線」の和久刑事の台詞を引用して、こう言った。
「正しいことをしたいなら偉くなれ。」
その言葉は、何の引っ掛かりもなく僕の腑に落ちた。五年前の僕は、その言葉を腑に落とさなかっただろう。

I look around, leaves are brown now
And the sky is a hazy shade of winter
(周りを見てごらん、木の葉は茶色
そして空には霞んだ冬の陰)

自分の両親の歩んだ道を考える。僕の父親は大手メーカーの雇われエンジニアだったが、会社の中で一歩一歩着実に階段を登り、遂には大きな責任を持つ立場にまでなった。サラリーマン人生としては十分すぎるほどの成功であろう。「こんな大きな仕事を任されてしまって…」などと愚痴る彼の顔は充実感に溢れている。

間もなく還暦を迎える母は、結婚前は高校教師をしていた。子育てがひと段落したら教壇に戻るつもりもあったようだが、ひと段落などする間もなく、気付けば28年間を主婦として過ごした。そんな母がふと、「私の生き甲斐は雅裕とアスミ(僕の妹)だった」と言ったのを聞いた。その時の彼女の顔に後悔や迷いは無かった。

Look around, leaves are brown
There’s a patch of snow on the ground…
(周りを見てごらん、木の葉は茶色
地面には雪が積もりだした)

人生とは何なのだろう。生き甲斐とは何なのだろう。何をすれば子供たちにハリボテではない夢や希望を語れるのだろう。そして、何をすれば満足して死ねるのだろう。ある一つの選択肢を考える。自分はそこで大きく成功し、生き甲斐を感じながら仕事に取り組む毎日を送れるに違いないという自信と、いや、結局はレンガの一ブロックとして小さく終わってしまうのではないかという不安が、「進め」「止まれ」を繰り返す信号機のように、交互に僕の胸に浮かんでは消え、現れては隠れる。そこで別の選択肢を考える。全く同じように、やはり自信と不安が交互に胸を支配する。

Look around, leaves are brown
There’s a patch of snow on the ground.
(周りを見てごらん、木の葉は茶色
地面には雪が積もりだした)

全ての面接が終わった日曜日の午後、肩の荷が下りた僕は、外したネクタイを鞄に突っ込んで、徒歩でダウンタウンへ向かった。もう師走も近いのに、生ぬるい空気を春一番のような突風が掻き乱す変な天気だった。慣れない革靴に足が痛むのでゆっくり歩いたのだが、友達との待ち合わせよりもずいぶん早くダウンタウンの公園に着いた。木に最後まで残った葉が強風に舞っていた。スタンドで揚げパンを買い、ベンチで頬張った。夏の間は涼しげに池を泳いでいたカモたちもすっかり姿を消し、冬篭りの準備に熱心なリスたちはせわしなく木と木の間を駆け回っていた。

Look around, leaves are brown
There’s a patch of snow on the ground..
(周りを見てごらん、木の葉は茶色
地面には雪が積もりだした)

人生なんて結局、スタート前に設計できるほど単純なものではないだろう。その意味は走りながら見つけていけばいいのかもしれない。道の選択は巡り会わせと直観か。一方で、後悔を蓄えながら生きる人や、出た賽の目の意味を後からでっちあげて後悔を隠そうとする人には、僕は決してなりたくない。だからこそ、僕は自信を持って道を選ばなくてはならないのだ。その自信が、まだ僕にはない。そして、自信は勝手に湧いて出てくるものではないことを、僕は良く知っている。結局僕は、あと一年半の学生生活を頑張って、さらに経験と知識を積み上げていくしかないのだろう。そうするうちに、僕はあるひとつの道を、自らの意志で選ぶ自信が得られるだろうか。

(Hazy Shade of Winter - words by Paul Simon, 和訳:緒野雅裕)

2009/12/10 Thursday

留学交流/留学相談フォーム

Filed under: 日々徒然 — ono @ 13:06:06

本日発売の「留学交流」という雑誌に、僕の書いた記事を載せていただいた。世に言う「留学体験記」だ。おおよそ巷に溢れる留学体験記は「異文化に触れ、視野が広がり、世界各国からの友達に囲まれ…」などと留学の楽しい面にばかりフォーカスする傾向がある。ならば僕は留学の苦労話を思いっきり書いてやろうと思い、渡米後に体験した辛さ苦しさ寂しさ情けなさを四ページの紙面に書き付けた。もちろん、僕も四年半の留学生活の中で他の留学体験記に書かれているような楽しさをたくさん味わったのだが、それでも留学で得た一番の経験はあの苦労とその克服だと思うことに偽りはない。

僕が今回の記事執筆の依頼を受けたのは、過去に催した「アメリカ大学院留学説明会」の噂が編集者の方の耳に入り、声がかかったという経緯だ。思いつきで始めた活動が、こうして次のステップへ繋がったことを嬉しく思う。僕にこのような素晴らしい機会を下さった「留学交流」の編集者の皆様に感謝するのみである。

そして、この機会にさらに未来の留学生へのサポート活動を拡大させるために、「アメリカ大学院留学相談フォーム」を設置した。留学を考えている日本の学生さんたちからの質問をこのWebフォームで受付け、現在アメリカの大学院に留学している日本人学生がそれに回答する、というものだ。MITやハーバードの約15人の友人がボランティアを申し出てくれた。今後はFAQやリンク集を設置し、他の大学からもボランティアを募って、サービスの充実を図りたい。熱意溢れる日本の学生さんたちに是非利用してもらいたいと思う。ただし、あくまでボランティア活動なので、回答できる質問の数には限りがあることはご理解いただきたい。

今年も、MITへ応募したいという何人かの学生たちから相談を受けている。彼らが添削してくれと送ってくる英語のエッセイを読むにつけ、ちょうど五年前、僕も彼らと全く同じように、下手糞な英語で一生懸命に願書を書いたことを思い出す。その時の僕は、海の向こうで活躍する自分の姿を頭の中に思い描きながら、静かな興奮に身を震わせていた。どでかいことをしてやるぞという野心に満ちていた。きっと彼らも同じような気持ちで海を渡ってくるだろう。そしてきっとその後に様々な苦労を経験するのだろう。いいじゃないか、それこそが若さだ。野心は冷凍保存するよりも、レンジに入れて爆発させてしまうに限る。元気が良すぎて日本を窮屈に感じている学生たち、是非とも飛び出して来て欲しい。

そして、こんな偉そうなことを言ってみた後で、わが身を振り返る。最近、発言がジジ臭くなったと笑われる。四年半のうちに、冒険は生活となり、挑戦は慣性となった。そんな中で自分は尖り続けていられるか。若いままでいられるか。そろそろ僕にも、新しい冒険や挑戦が、必要な時期なのかもしれない。

Buddy you’re a young man hard man
Shoutin’ in the street gonna take on the world some day
You got blood on your face
You big disgrace
Wavin’ your banner all over the place

We will we will rock you

おいそこの若造、気難しい野郎め
天下を取るぞなどと豪語しやがって
顔に血が付いているぜ
この恥さらしめ
幟をかざして街中を練り歩け

俺に、俺にかかってこい

2009/12/4 Friday

MIT生の性生活

Filed under: 日々徒然 — ono @ 15:06:46

MITの学生新聞 “The Tech”に、一月ほど前、”Sex@MIT”という特集が組まれました。内容はご想像のとおり。特集は全部で10ページにも渡り、同性愛、アナル/オーラルセックス、レイプや玩具のことまで、包み隠さずにあけっぴろげに書かれているのがいかにもアメリカです。(紙面のPDF

とりわけ面白かったのが、MITの学部生を対象に行ったアンケートの結果です。全体の40%、1,729人から得た回答をもとに、MITの学生がどんな性生活を送っているのかを浮き彫りにしています。(原文はここ

MITはドウテイが多い?

東大や東工大にはハタチにもなってドウテイを捨てられないオタクがうようよいるとの偏見がありますが、こちらでも「MITはセックスに興味がないオタクの巣窟だというステレオタイプ」があります。そしてアンケート結果によると、このステレオタイプはある程度事実のようです。アンケートに回答したMITの学部生のうち42%が、自分はバージンだと答えました。(英語では男性に対しても「バージン」という言葉を用います。)大学一年生の未経験率は63%だそうです。一方で、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)の統計によると、高校三年生のアメリカ人の平均バージン率は53% (2003年)とのこと。たしかにMIT生はバージンが多いようですが、そこまで大きな差でもありません。してないわけでは決してないぞ、というのが、学生新聞の主張です。

アメリカではキリスト教の影響が強いためか、結婚までセックスはしないというポリシーを持つ人が多くいます。未経験者のうち、男性の23%、女性の39%は、できないからしていないのではなく、しないと決めているからしていないのだそうです。本音の人、負け惜しみの人、両方の人、きっと色々でしょう。

ちなみに、MITの学生の15%がアナル・セックスの経験があるそうですが、そのうち2.5%の人は、依然自分はバージンだと考えているそうです。つまり彼らは、アナル・セックスはセックスではないと定義しているのです。なんだか屁理屈っぽい純潔の守り方ですね。

MITの学年別バージン率。左から、一年生、二年生、三年生、四年生、留年生です。マニアだらけのMIT生も、ちゃんとオトナの階段を登っているようです。

学科別、寮別の傾向

専攻によって、バージン率に明らかな傾向があるようです。経験豊かな学科ベスト3は、政治科学科(9.9%がバージン)、経営学科(27.5%)、地球大気惑星科学科(28.3%)。一方、20年物の未開封ボトルが多く蓄えられている学科ベスト3は、化学科(48.2%)、人文学科(45.7%)生物工学科(45.4%)。トップ3を見れば文系のほうが経験豊かなのだと取れますが、一方で人文学科が純潔第二位に入っているあたり、傾向が読めません。

学科以上に強い傾向が現れるのが、住んでいる寮ごとの統計です。アメリカの大学の学部生はキャンパス内の寮に住むのが一般的で、それぞれの寮には独自の文化、独自の雰囲気があります。「ハリー・ポッター」でもそうですよね。MITには12の学部生寮があり、そのなかで最もはっちゃけているのがSenior Houseで、バージン率は20.4%。一方、最も真面目な人が集まるMcCormick Houseでは、バージン率は驚きの82.4%にも達します。

MIT 寮別バージン率
寮別バージン率

性的嗜好

87%の学生がストレートで、3.5%が同性愛者、6%がバイセクシャルだそうです。僕の周りにもゲイの友達が二人います。アメリカの中でもリベラルなボストンでは、同性愛者は堂々としています。自分の性的趣向を公表することをいとわず、パーティーにも同性のパートナーを連れてきて、平然とした顔で”This is my boyfriend”などと紹介します。

13%の人が、同性とのセックスの経験があるそうです。性別での内訳は、男性が10%に対し、女性が16%。女性のほうが同性セックスに積極的のようです。Comparative Media Study (比較メディア学?)学科では、なんと42%の学生が同性セックスの経験があるそうな。メディアは前衛的で芸術家肌の人が多そうなイメージがあるので、なんとなく納得です。

How? Why?

66%の男女が、セックスの質に満足しているそうです。「なぜセックスをするのか」理由を尋ねたところ、92%が「自分の満足のため」、77%が「パートナーと親密な関係を築くため」、そして16%が「嫌なことを忘れるため」と答えたそうです。MITは授業も研究もタフで、精神的負担が大きく、鬱病になる人はもちろん、自殺してしまう人も毎年のようにいます。ガス抜きは重要ですよね。

MIT セックスの満足度
セックスの満足度

その他もろもろ

この号の特集には、統計だけではなく、MITの性に関する様々な記事が並んでおりました。性感染症の予防に関する真面目な記事から、「わたしの初体験」を語る投書コーナー、ポルノ映画、レイプを防ぐ方法からオモチャの紹介まで。全紙面がPDFで閲覧できるので、興味がある方はぜひ見てみてください。

オモチャ紹介のコーナーの書き出しがいかにもMITっぽくて面白かったので、以下に翻訳します。

MITの必修科目である物理を習った人なら皆、摩擦は運動の敵であることを知っている。摩擦は常に動きに抵抗し、性交のように二つの物体が接触するときには必ず摩擦が発生する。ある程度の摩擦は良いものだが、強すぎる摩擦は辛い経験となる・・・

うむ、セックスも物理学の問題として扱っているようでは、MIT生のバージン率が全国平均より高いのも頷けますね。

最後に、「私の初体験」に寄せられた投書をいくつか翻訳したいと思います。

  • モーテルに彼女を連れ込み、二回して、帰った。
  • SUVの前部座席で、デブ男と。
  • 私の初体験は結婚の後でした。意味のあるものにしたかったからです。
  • 泥酔して何も覚えていない。
  • ボーリングの初体験のことだよね?え、違うって?えっと、気にしないでくれ!
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