外国の旅はたいてい、大都市から始まる。国際線のほとんどは国の中心都市の空港に着くからだ。スペインならマドリード、キューバならハバナ、モロッコならカサブランカ、そういった具合だ。今回の旅の起点となったセネガルの首都・ダカールも西アフリカ随一の大都市で、都市圏人口は250万を数える。
都市は単なる人間の集積ではない。都市には色がある。音がある。味があり、匂いがあり、温度がある。都市は外国人にとってはその国の顔であり、現地に住む人にとってはその国の心臓である。旅人がその国ではじめての一日をその都市で過ごす時、その国でのはじめての食事をその都市でする時、その国の人とはじめてその都市で話した時、その国について感じる何かがある。
例えば、二年前に訪れたベトナムのサイゴン(ホーチミン)。夕方に空港に着き、タクシーで市内へ入るやいなや、僕らは前後左右を凄まじい数のバイクに囲まれた。スーツを着た仕事帰りのサラリーマン、二人乗りのカップル、四人乗りの家族、あらゆる種類の人たちが、小さなバイクのハンドルを両手でしっかり握り、車などものともせず、ぶつかる寸前の車間距離で前へ前へと走っていた。まるで大河を濁流が流れ下るようで、その中で身動きが取れなくなった僕らのタクシーは、流れに呑み込まれんとする岩のようだった。安ホテル街でタクシーを降りれば、狭い道の両側に不揃いな高さや形のビルが壁と壁をくっつけてぎっしりと並び、見上げれば電線が縦横無尽に走っていた。おびただしい数の看板たちが肩と肩をぶつけ合いながら必死に自己主張をし、その下にある露店は夜遅くまで賑わっていた。フランス植民地時代に「東洋のパリ」と呼ばれたこの街から感じたのは、鞭を入れられた馬が全力で前へ駆けるような、躍動感に溢れるエネルギーだった。
しかし、「西アフリカのパリ」を自称するダカールからは、そんなエネルギーはあまり伝わって来なかった。むしろそこで感じたのは、のどかで、貧しいけれども平和で、そして少々退廃的な空気だった。

僕がダカールに到着したのは真夜中で、初めて街を歩いたのは、翌朝、ダウンタウンのガンビア大使館へビザを取りに行くときだった。馬車の時代から道路整備を怠ってきたからだろう、ダウンタウンの狭い道では、僕らが乗ったタクシーは人が歩く早さでしか進めなかった。それほど多くの人々が通りに溢れているから、街は賑わっているように見えるのだが、しかし何かが違う。人の半分は、道にシートを広げたり、首からカゴをぶら下げたりして何かを売っている。携帯電話のプリペイド・カード、日用雑貨、お土産など、品は様々だ。しかし売り手の数が過多で、どこも売れている気配がちっともない。そして残りの半分の人はといえば、手ブラで歩いている。彼らは何をしているのだろう?買い物をしているわけでもないし、物を売っているわけでもない。仕事に行くわけでも、仕事をしているわけでもなさそうだ。ある人は足を止めて友達と立ち話をし、ある人はおもむろに路肩に腰を下ろす。そして、そんな呑気な人たちの多くは、働き盛りの歳の男だった。
「この国ではね、失業率が45%もあるのよ。」
案内してくれた友人が教えてくれた。
「そして、税金を納めている人は5%しかいないの。」
ビザ申請と観光を済ました後、Medinaという、商店街と町工場街と住宅街が混然と一体になったような地区を歩いた。通りに溢れていたのは、散らかり放題のゴミの山、そこから放たれる悪臭、フラフラと歩くヤギたち、彼らが落として行く糞、そしてやはり、何をするでもなく店先に腰を下ろして友達と雑談に耽ったり、ヤギたちと共にフラフラと手ぶらで歩く、働き盛りの男たちだった。そんな人々の顔には切迫感も緊張感もなく、むしろ平和で穏やかな笑顔に満ちていた。道で少年たちがサッカーに興じているのはどこの国でも見かける光景なのだが、この街では二十歳を過ぎた青年たちも昼間から道でボールを追いかけていた。
コンクリートむき出しの状態で放置されている、建設途中の建物を頻繁に見た。働いている人が誰もおらず、工事を先に進める気がまるで無いようなものも多かった。工事中のまま、とりあえず完成している部分に人が住んでいる建物もあった。
人々の貧しさは言うまでもない。友人の話によると、この街では月給2万円の仕事にありつければ御の字だそうだ。どこの家族も失業者だらけだから、その薄給で大勢の兄弟や子供を食べさせなくてはいけないのだという。しかし一方で、ここよりは断然豊かな中南米と比べて、骨と皮だけになって死にそうな人を路上で見る頻度は、低いように思えた。助け合いの精神があるからだろうか、それとも、すぐに死んでしまうからだろうか。そういえばこの街では、老人をほとんど見かけない。
帰り道に歩いた街の西側の大西岸では、夕焼けがとても美しかった。イメージ通り、と言ったら失礼かもしれないが、セネガル人はスポーツが好きだ。海岸沿いの通りでは人が列を成してジョギングや散歩をしており、砂浜は群れて体操やサッカーをする人で溢れていた。そんな光景はとても平和でのどかだった。そして海岸は相変わらず、ゴミだらけだった。

平和で貧しい。旅から帰った後、セネガルとガンビアはどんな国だったかと聞かれれば、僕はそう答える。
事実、セネガルはとびきり平和な国だ。セネガルの殺人発生率(人口10万人あたり)は0.33 で、アメリカ(5.51)はもちろん、日本(1.10)よりも少ないのだ(2000年)[1]。
戦争もない。アフリカには年中行事のように戦争をしている国が数多くあるが、セネガルは1960年に血を流すことなく独立を達成し、それ以降も、南部カサマンズ地方の独立紛争*1を除けば、一貫して平和が保たれてきた。複雑な民族構成を持つが*2、民族同士が銃を向け合うことはほとんどない。
そしてこの国には、アフリカでは珍しく、独裁も、恐怖政治もない。独立以降、クーデターも一度も起きていない。また、物価も比較的安定している。インフレ率は長らく一桁台に抑えられてきた。HIV感染率も1%[2]である。
もちろん、セネガルで平和と安定が保たれている理由のひとつには、金やダイヤモンドなどの奪い合いの対象になる資源が無かったこともあろう。しかしそれだけではなく、穏やかで争い事を好まない国民性も作用しているのではないかと思う。
そして、言わずもがな、貧しい。セネガルの一人当たりGDP(購買力平均)は1,600ドル[2]で、日本の20分の1である。これでもアフリカの中では悪くない方だとはいえ、国連が定義する後発開発途上国(俗に言う最貧国)のひとつに数えられる。人々は、自分が生きている間に自国が豊かになるという希望など持っていない。だからみんな国を捨てて欧米へ移住したいという、安直な夢を持つ。その方法は、前回の日記で紹介したBakaryのように欧米人の妻を探すか、大西洋沖に浮かぶスペイン領カナリア諸島へ木製の船で密航するかだ。

ベトナムも、かつては最貧国のひとつだった。泥沼のベトナム戦争が1975年に終わった後も、懲りもせずに中国やカンボジアと戦争を売ったり買ったりし続けたせいで、国土は荒れに荒れ、国際社会からの援助も途絶えた。社会主義に基づく計画経済も全く上手くいかず、文字通り貧しさのどん底に陥った。
しかし、1986年にドイモイ政策によって自由市場経済が導入され、1989年にようやく戦火が収まると、ベトナム経済は、春を待っていた芽が一斉に吹くように、目覚しい成長を始めた。実質GDP成長率は毎年7%を超え、アジア通貨危機も大きな影響を受けずに乗り切った。90年代初頭には約50%あったという貧困率は、2007年には15%[2]にまで減り、現在も中国に次ぐ成長率で発展し続けている。そしてその原動力となっているのが、道をバイクが濁流の如く駆け回る都市、サイゴンである。サイゴンは、南北に長い国土の南の端から、エネルギーに満ちた血液を、国中に力強く送り続けているのである。
思い返せば、我が国日本だって、お隣の韓国だって中国だって、惨々たる状況から出発したものの、平和と経済の自由という二つの条件が揃った瞬間に爆発的な発展を遂げた。一方、セネガルでも、平和と経済の自由という条件は50年前から揃っているのだ。90年代後半以降は年率約5%の経済成長を達成しているとはいえ、どうしてこの半世紀の間にもっと豊かになりえなかったのだろうか。東アジアで起きたような爆発的で継続的な発展が、どうしてここでは起きないのだろうか。サイゴンで感じた、明日を予感させるようなエネルギーが、どうしてダカールの街では感じられないのだろうか。
もちろん、その責任の多くは先進国にあろう。出稼ぎ労働者が来ることを拒み、自国の農業を保護するために農産物の輸入を渋る。溜め込んだ富の再配分を拒んでいるのだ。また、セネガルの人たちに言わせれば、過去の過酷な植民地支配のせい、と言うかもしれない。
しかし、それだけではない気がする。
少々乱暴な議論かもしれないが、ぼったくられたり怪我をしたりしながら一週間セネガルとガンビアを歩いた末に思ったのは、結局のところ、差は「文化」にあるのではないか、ということだった。勤勉を美徳とする文化。教育を重んじる文化。コツコツと計画的に貯金する文化。こうした、東アジアではあたり前の「文化」がこの国では希薄なことが、人々が豊かにならない根源的な原因なのではないかと思った。

この国の人たちは基本的に、とても穏やかで人が良い。しかし一方で、彼らが勤勉であるとは言いがたい。
先に書いたとおり、セネガルの失業率は48%[2]にも上るのだが、そもそも路上で暇そうにしている人のうち、誰が失業者で、誰がそうでないのかを区別することは難しい。
例えば、ダカールの外国人が住むアパートには大抵、ガードマンが五人くらいいる。しかしこんなに平和で安全な国ではさぞかし暇なのだろう、そのうち四人くらいは門の前に輪になって座り、お喋りをしている。家具工場を覗けば、やたらと沢山の男が中にいるのだが、鋸を引いたりカンナをかけたりして手を動かしている人は僅かで、木を押さえている人や(そもそも万力を使えば人が押さえる必要もない)、それさえもせずにただ突っ立っているだけの男も何人もいる。市場でも、路上の商売でも、買い手よりも売り手も数のほうが多く、暇な店員は椅子に腰かけ、「暇だねえ」と隣の店の店員と雑談をしている。
「ワークシェアリングをしているのだ」と言えば聞こえが良かろうが、暇を持て余している人が勤勉に働けば、商売を改善する余地があるように思えてならない。ガードマンはともかくとして、例えば家具に装飾を施せば商品の付加価値は高まるだろうし、市場で客引きをすれば売り上げは上がるかもしれない。そんな考えは、間違っているだろうか。
一方、「失業」していても、場当たり的に小銭を稼ぐ方法ならいくらでもあるように思う。この国では商売に店舗は必要ない。道にシートを敷いてモノを並べたり、首から大きなカゴをさげて歩き売りしたりすればよいのだ。初期投資はほぼゼロだから、仕入れるモノさえあればすぐに商売が始められる。恐らくは似たり寄ったりの商売をする人から仕入れて、ほんの僅かの利益を乗せ、別の似たり寄ったりの商売をする人に売るのだろう。だからダウンタウンの道は、買い手もいないのに、路上の商人ばかりでごったがえす。
モノを仕入れる現金がない人は、ゴミの山からペットボトルを拾う。それが僅かな金で売れる。ペットボトルもなければ、どこかでモノを頂戴してきて、盗難品市場に売るという手もあるそうだ。

労働意欲は薄くとも、彼らはいかんせん貧しいから、お金は喉から手が出るほど欲しい。かといって穏やかな性格からか、強盗殺人のような大きな悪事を働くことは極めて稀だ。しかし、小さな悪事や些細なウソで小銭を稼ごうとする輩ならいくらでもいる。彼らの標的は専ら外国人である。例えば、頼んでもいないのに勝手に道案内をして「ガイド料」を取る。すれ違いざまに「今日の帰りのバス代がない」などと思いつきの理由をこしらえて金を乞う。演技もウソも下手っぴで、相応に金額も微々たるものだ。
もちろん、小さな悪事すら働かずに、真面目に生きている人の方が多かろう。しかし彼らの商売は、失礼かもしれないが、何かにつけて安直で短視眼的だ。例えば、ダカールの魚市場は砂浜にある。小船が取ってきた魚を、浜に着いたらそのままその場で売るからだ。市場といっても、屋根も建物もない。港湾施設も一切ない、単なる砂浜である。浜には干からびた魚がうち捨てられている。昨日の売れ残りだろうか。それなのに漁師は取れるだけ取ってくるようで、乱獲で漁獲量が減っているのだという。ちなみにセネガルで最も外貨を稼ぐ産業がこの漁業だそうだから、余計に頭が痛い。


働く悪事の規模が小さいことと関係があるかどうかは分からないが、商売もどれも規模が小さい。ダカールのMedina地区に数多く並んでいる家具工場やクチュリエ(縫製所)は、全て二階建ての一軒屋に収まる規模の家族経営である。街と街を結ぶ交通の主役は、バス会社ではなく、7人乗りのSept-placeと呼ばれる乗り合いタクシーだ。これも、車の所有者の個人経営である。
大きなビジネスは専ら外国資本である。隣国の話になるが、ガンビアの大西洋岸に並んでいた外国人向けリゾートホテルの殆どは、レバノンやリビアから来た商売上手のアラブ人が経営しているそうだ。ダカールで泊めていただいた友人夫婦の旦那さんは世界銀行に勤めているのだが、セネガル人が稀に持ち込んでくるビジネスの案件は、計画性に乏しくてとても融資できるようなものではないことが多いそうだ。セネガル資本の大会社といえば国営電力会社のSenelecくらいなのだが、何度も賄賂を払わなくては電気が来ないそうで、この上なく評判が悪い。

(写真:Sept-placeの乗り場。いっちょ前に”gare routière”、英語にすれば”bus station”を名乗っているが、実態は単なる駐車場である。チケット売り場も待合室もない。人が掲げる看板を頼りに目的地へ向かう車を探し、ドライバーと交渉して、お金は直接現金で渡す仕組みだ。)
青年海外協力隊として、セネガルの田舎の村の学校で教育の改善に取り組んでいる女性と会った。彼女は「セネガル人は他力本願だ」と嘆く。隊員から何かを学ぼうとするのではなく、彼らに何かをやってもらおう、という受身の姿勢の人が多いそうだ。例えば、農業の生産性を上げるための技術を教えようとした隊員がいた。彼は二年間の任期の間に一生懸命指導して畑を改善したが、彼が帰るとすぐに元通りになってしまったのだと言う。彼女自身も、村人から「青年海外協力隊はお金をくれないから意味がない」などと悪口を言われたことがあったそうだ。

なんだかセネガル人の悪口ばかり言っているようで恐縮なのだが、もちろん彼らの中にも勤勉な人たちはいる。友人夫婦が贔屓にしているクチュリエ(縫製所)がその例だ。彼らは勤勉なだけではなく、とても器用だ。たとえば手持ちのドレスと同じものがもう一着欲しい時、生地を買って、そのドレスと一緒にクチュリエへ持っていく。すると数日のうちに、元のドレスと寸分違わぬ複製品を、三千円くらいで作ってくれるそうだ。
そこで友人夫婦が彼らの器用さと勤勉さを買って、蚊帳を作るように頼んだ。マラリアがはびこるセネガルでは、蚊帳は必需品なのだ。お手本がないので、寸法は図面を引いて渡した。しかし誤算があった。彼らは図面が読めなかったのだ。だから、指定した寸法とは数十センチも違うものが出来上がったそうだ。図面を読んでゼロから物を作る能力は、器用さとは全く別物のようだ。
蚊帳ならまだ、これでもいい。しかし、これでは車の部品は作れない。機械部品は精度が命だ。例えば、日本の工業規格であるJISの最も粗悪な等級でも、直径10cmの歯車に対して、最大0.125mmの誤差しか許されないのだ(JIS B 1702-1:1998)。そして当然、お手本もなく、図面だけを頼りに加工することを要求される。
日本では、小学校の算数で、立体図形の辺の長さやら展開図やらを嫌になるまで勉強させられる。製造業で豊かになった日本にとって、あの教育がどれほど大事だったかが、身に染みて分かった。
しかるに、日本では子供が親にこんな不満を漏らす。
「数学なんて将来何の役にも立たないから、勉強する意味なんてねえよ。」
それに対して、親はこう叱りつける。
「何言ってるの、ちゃんと勉強しなさい!」
それがセネガルでは逆のようだ。子供がこう言う。
「お父さん、学校で数学を勉強したいよ。」
それに対して親がこう叱る。
「数学なんて何の役に立つのよ。そんなものを勉強する暇があったら、畑を耕しなさい。」
だから学校は、親に子供を通学させることを納得させるために、「役に立つ」ことを教える。これは隣国のガンビアで聞いた話なのだが、学校の「理科」の授業では、物理や化学はいい加減に済ませ、代わりに農業を教えるのだそうだ。もちろんそれは短期的には地域経済に役立つことなのだが、それでは人は図面が読めるようにならず、製造業を担うエンジニアも育たない。とはいえ数学や物理のような「役に立たない」教科を教えようものなら、そもそも子供が学校に来ない。悩み深いジレンマだ。

(写真:セネガルのおバカな大統領 Karim Wadeが、24億円をかけてダカール郊外に建設中の像。自由の女神よりも大きいらしい。そんなお金があるなら道路などのインフラ整備に回せばいいのに。しかも建設を請け負ったのは北朝鮮の会社なのだとか。セネガル人を雇えば、一時的にでも僅かな雇用が生まれたのに。しかもしかも、この像による観光収入の3分の1は、大統領のフトコロに入るそうだ[3]。とはいえ、これでも選挙で大統領を辞めさせることができるだけ、他のアフリカの国よりもずっとマシである。)
なんだか今回の日記はセネガルやガンビアの人たちの悪口のようになってしまった。しかし強調しておきたいのは、前回の日記でも書いたとおり、彼らの殆どは根っからのいい人たちなのだ。しかし、少々要領が悪い。少々教育が足りない。少々怠け癖がある。少々考えが短視眼的だ。だから、彼らの狭い視野の中では精一杯にやっているつもりなのに、上手く行かないことが多いのだ。
今回の旅では本当に多くの人たちに親切にしてもらい、とても楽しい思いをした。セネガル人やガンビア人が好きかと聞かれれば、僕は迷いなく好きだと答える。そして繰り返すが、彼らの穏やかで外国人を分け隔てなく歓迎する性格は、この国の半世紀の平和と決して無関係ではなかろう。彼らの性格は、がめつく競争に勝ち抜いてお金を稼ぐよりも、平和にのんびり暮らす方が、適性があるのかもしれないと感じた。あるいは、少々意地の悪い言い方をすれば、小さな町工場にも1000分の1ミリの精度で機械部品を削り出せる技術者がわんさかいて、その誰もが週に60時間も働く国と同じレベルの豊かさをセネガル人が望むのは、彼らの性格や文化が根本的に変わらない限り、無謀な夢であるように感じた。一方で、もし彼らの性格や文化が根本から変わってしまったら、果たして現在のセネガルの穏やかな平和は保たれるのだろうか、とも思った。
そして、どんなにセネガルが今より豊かになろうとも、欧米との明らかな経済格差がある限り、セネガル人は自らを貧乏だと定義し、今の状態を不幸だと認識するのだろう。文化や人の性格が違えども、多次元座標上に存在する価値を、お金という一次元座標に投射して比較するのは、アメリカ人も日本人もセネガル人も同じなのだ。

(写真:Kaolackの町にて)
とても無責任な話だが、僕はこの国を缶詰の中に入れて封をしてしまいたい気持ちに駆られた。先進国からの情報も人の往来も全てシャットアウトして、ただ彼らに必要な食料だけを搬入する。そして、彼らの国よりも豊かな社会があることを誰も知らないようにするのだ。大西洋の対岸やサハラ砂漠の反対側には、多くの家庭が自動車を所有し寿命が80年もある社会があるということをセネガル人たちが一切知らなければ、多くの家庭が自動車は無いが携帯電話は所有し*3寿命が50年ある彼らの社会だって、貧しいとは思わないかもしれない。現状に満足して平和に暮らすほうが、もしかしたら幸せかもしれない。
もしこの議論に納得できなければ、次のような空想をしてみたらどうだろうか。現在の世界に突然ムー大陸が浮上して、そこにはどの家庭も「どこでもドア」を所有し、癌の治療法が確立されていて120歳まで生きるのが当たり前な社会があったとしよう。「どこでもドア」は1億円、癌の治療には10億円かかる。ムー国家は、不法労働者が自分の国に流れ込み、富が流出するのを防ぐため、日本人やアメリカ人たちに対しては旅行ビザすら決して発給しない。
そうしたら、日本人やアメリカ人はどう感じるだろうか。きっと自動車などという前時代的な移動手段を使っている我々の社会は貧しいと感じ、癌などという治療可能な病気で人が死ぬのは不条理だと感じるのではなかろうか。そして、そんな社会から抜け出せない自分は不幸だと、人は感じるのではなかろうか。ならば、絶対的な豊かさは同じでも、ムー大陸を知らない現在の日本人やアメリカ人の方が、それを知っている日本人やアメリカ人よりも幸せなのではなかろうか。
現実の世界へ話を戻そう。ムー大陸は存在せず、日本や欧米が世界で一番豊かな社会を実現している。そして、大西洋やサハラ砂漠はもはや情報や人間やモノの往来を阻む障壁ではなくなっている。セネガルの人たちは映画やテレビで欧米の豊かな暮らしを知っているし、欧米から来る観光客やビジネスマンは目玉が飛び出るほどの額の札束を財布に入れて持ち歩いていることを知っている。グローバル化する世界では、もはやどこの国も缶詰に入れて保存することはできない。
しかし、グローバル化は一方通行だ。先進国の人は途上国へ行くことが出来ても、途上国の人は先進国へ入るためのビザを取ることができない。先進国は途上国へ工業製品を輸出するが、一方で自国の農業を保護するために、途上国から農作物を輸入することを渋る。だからセネガルは失業者で溢れかえり、多額の貿易赤字に苦しむ。
ならば、もうひとつの極端な「解決策」が頭に浮かぶ。いち、にの、さんで国境を全て無くすことだ。全てのモノが関税無しに、全ての人がビザなしに世界のどこへでも行けるようにするのだ。そうすれば、先進国は平均的に今よりもだいぶ貧しくなり、途上国は今よりも少しだけ豊かになり、格差は減り、結果、不幸と思う人の数が減るのではなかろうか。資源分配はグローバルに最適化され、世界全人類の効用関数の合計値は増大するのではなかろうか。
しかしもちろん、そんな「解決策」は決して実現可能ではない。日本の農業が壊滅し、大勢の外国人出稼ぎ労働者が日本へ流れ込み、失業率が跳ね上がることを、日本人の誰が望むだろうか。豊かさは先進国の既得権益だ。それを守りたいと思うのはとても自然な人間の感情だ。だから先進国の人たちは、貯めた水が流れ出ないように、国境を壁で囲い、門を固く閉ざす。自分の権利を守ることの何が悪い、そう壁の内側から叫ぶ。少々の後ろめたさは、小銭を募金箱に投げ込んで解消する。これは決して非難ではない。僕も、恐らくあなたも、その立派な一員なのだから。
しかし、壁の存在は認めても、今の世の中は「正しくない」と感じ、少しでもそれを正しい方向へ向かわせるために地道に活動している先進国の人たちは大勢いる。「開発」という仕事に携わっている人たちだ。ダカールで泊めていただいた世界銀行に勤める友人。青年海外協力隊としてセネガルの田舎町で働いていた女性。ボストンの友人たちも、この冬にウガンダやバングラディシュで働いている。無力感に襲われることも度々あるだろうに、辛抱強く逞しく、途上国にも幸せな社会を実現しようと頑張る彼らを、僕は尊敬する。
彼らの努力が実り、セネガル人たちが自分の国で満足のいく生活を手に入れて、無謀なアメリカン・ドリームを抱かずに暮らせる日は、来るだろうか。

(写真:ガンビアとの国境・Karangの町にて)
旅はたいてい、大都市で終わる。僕はガンビアからダカールに戻り、モロッコのカサブランカを経由して、大西洋を越えニューヨークへ向かった。そして、そこから陸路でボストンに戻った二日後に、今度は太平洋を越えて東京へ飛んだ。
東京。これほど豊かな街は、世界でも珍しかろう。東京には、ダカールのような退廃的な空気はないが、かといってサイゴンに溢れていたような、前へ前へと突き進むようなエネルギーも感じない。感じるのは、飽和と閉塞の臭いだ。時間通りにやってくる電車に乗り込めば、疲れたサラリーマンはイヤホンを耳に突っ込んで眼を閉じ、OLは始終携帯電話でメールを打っている。皆、知らない人とは決して言葉を交わそうとしないから、車内は妙に静かだ。原宿のどのブティックの服がかわいいかを延々と議論する女子高生の二人組や、代ゼミのどの講師が一番「使える」かを延々と議論する男子高生の四人組の声が、やたらと目立って聞こえる。その中で、老人が、大きな紙袋を両足で挟んで、居心地悪そうに座っている。
素晴らしい社会だ。何と豊かで、満ち足りて、幸せな社会なのだ。セネガル人が見たらそう思うだろう。しかし、山手線に乗っていたサラリーマンやOLや、女子高生、男子高生、老人は、果たしてどのくらい幸せを噛みしめて生きているか。幸せへの感度が鈍り、幸せを幸せと感じなくなることがつまり、幸せなのだろうか。それとも、より次元が高い不満を見つけることが、幸せなのだろうか…。

(写真:モロッコ・カサブランカにて)
こんなことを長々と日記に書いて世の無常を悟った気になり、虚無感に浸ったところで、セネガル人を豊かにすることもできなければ、ビルの屋上から飛び降りようとしている日本人を救うこともできない。
しかし少なくとも、自分自身の生き方の指針ならば、この旅の経験から二つばかり導き出すことができた。
一つ目は、自分の幸せをしっかりと認識すること。そりゃ僕にだって小さな不満はいくらでもある。彼女もいないし、去年出した論文のいくつかがrejectされたし、運動神経がなく、安月給な上に、ボスは頑固だ。しかし、もちろん不満を解消するための努力は続けるが、その不満を我が身の不幸の根拠としてしまったら、それこそが不幸だ。そうじゃない。僕は幸せなのだ。安全な家に住み、食べ物にも困らず、五体満足で、いつも僕を案じてくれる家族がいて、誕生日を祝ってくれる友達もいて、世界で最高の教育を授かった。文句の付けようがない。僕は世界一幸せな人間じゃないか。そう思えるならば、本当に僕は世界一幸せな人間なのだ。
そして二つ目は、手元にある仕事をコツコツと計画的に頑張ること。もし国の成功が国民の性格に帰せられるならば、個人の成功がその人の性格に帰せられることはもちろんだろう。
どちらも当たり前のことだ。笑ってしまうほど当たり前のことだ。しかしこれを実践することは、そう簡単ではあるまい。
まずは自分が幸せになり、次に人生において成功し、そして日々の暮らしや仕事のなかで、自らの幸せを、少しずつ周囲の人にもお裾分けすることが出来たらいいと思う。
「見えぬなら 描いて見よう 青い鳥」 緒野雅裕

(写真:ダカールよりモロッコへ向かう機上で見た、サハラ砂漠の朝焼け)
脚注
*1カサマンズ地方は国の中央部との交通をガンビアに遮られ、半ば飛び地のようになっている。そこに住むJola族を中心とした武装勢力が、独立を求めて政府軍と散発的に衝突を繰り返していたが、現在は沈静化している。
*2他のアフリカ諸国と同じく、セネガルでも異なる言語を持つ多くの民族が入り混じって暮らしている。僕の目から見れば黒人はみんな同じに見えてしまうのだが、この国にはWolof(人口比率43%)、Fula(24%)、Serer(14%)、Tululor(10%)の四つの主要民族と、他にも無数の少数民族がおり、それぞれの民族はさらに細かい部族に分かれているそうだ[4]。また、同じ民族の中にもイスラム教徒とキリスト教徒が混在しており、複雑さに拍車をかけている。
*3少々意外に聞こえるかもしれないが、アフリカでは、大規模なインフラ整備が不要な携帯電話の方が、固定電話よりもよく普及している。セネガルで携帯電話を持つ世帯の割合は63%[5]にも上る。一方で、電気が届いている世帯の割合も、同じ63%[5]だそうだ。電気が届いている場所でも、停電は日常茶飯事である。なんだかいびつな経済発展のように思う。
出典
[1] Crime and Society, a Comparative Criminology tour of the world.
[2] CIA The World Factbook, 特に記載の無い限り2008年の統計
[3] BCC News - Senegal President Wade apologises for Christ comments December 31, 2009
[4] Lonely Planet - The Gambia & Senegal, Katharina Lobeck Kane, 2009
[5] Gallup World View, 2008年統計