2012/1/7 Saturday

ボロボロの地図/さようなら、ボストン

Filed under: しんみり, 日々徒然 — ono @ 15:34:40

8ヶ月もブログの更新をサボってしまった。言い訳すると、卒業を控えとても忙しかったのだ。その間の頑張りの甲斐あり無事にPh.D.を取得できたのだが、この話はまた今度ゆっくり書こうと思う。

そんなわけで、6年半も住んだボストンをあと数週間で離れることになった。部屋を引き払う準備のため片付けていると、ボロボロになったボストンの地図が出てきた。懐かしさに思わず手を止め、見入ってしまった。

20120107_0053181

この地図は6年半前、僕がこの街に移り住んだ直後に買ったものだ。まだ街に不案内だったから、外出するときはいつもこの地図をポケットに入れて歩いた。使い慣れた地図は便利だから、破れてもセロハンテープでつないで使い続けていた。地図を大きく広げキョロキョロしながら街を歩く僕は、見るからに新参者だった。

しかし、やがて暮らしに慣れ、道に迷うこともなくなり、いつのまにかこの地図を持ち歩くことはなくなった。両手をポケットに突っ込んで、我が物顔で街を闊歩するようになった。真新しかった地図のあちらこちらに書き込みが入り、汚れが付き、穴が空くように、六年半の間にこの街のひとつひとつの場所に僕の様々な思い出が染み付いた。

その地図を遂に捨てる時が来た。「記念にとっておこうか」という考えも浮かんだが、そうやって何でも「記念に」とっておくから部屋がガラクタの山になるのだと思い直し、写真を撮ってから、少々の決心とともにゴミ袋に突っ込んだ。

さようなら、ボストン。去るのがとても寂しい。

2010/1/19 Tuesday

夢に見る

Filed under: しんみり — ono @ 21:46:10

飼っていた犬のチコちゃんが死んでもう五年が経つが、未だに夢に見ることがある。

今朝がそうだった。僕はリードを引いて、チコちゃんと一緒に山手線の電車に乗った。車両の端の三人掛けの席の、ドアに一番近い場所に座り、ドアの脇の手すりにチコちゃんのリードを結びつけた。チコちゃんは鳴きもせずにいい子でお座りをしているので、僕は安心して寝てしまった。

はっ、と目を覚ますと、降りるつもりの駅だった。慌てて席を立ち、「チコちゃん、降りるよ!」と言って足元を見ると、そこにチコちゃんの姿はなく、繋ぎ止める相手を失ったリードは手すりからだらりと床に垂れていた。僕は慌てた。「チコちゃん!」と叫び、車内を見回し、見つからず、ホームに飛び出し、見回し、見つからず、発車ベルが鳴り、ドアが閉まろうとした時、隣の車両の座席の上に、チコちゃんがお座りしている姿が、ふと目に入った。僕は閉まりかけていたドアをこじ開けて元いた車内に戻り、隣の車両との間のドアを開けると、寂しがり屋のチコちゃんは、キャンと鳴いて一目散に僕の胸に飛び込んできた。手足をじたばたさせて嬉しさを表現するチコちゃんが車両と車両の間の隙間に落ちてしまわないか心配で、僕は両手で必死にチコちゃんを押さえつけた。両手で触れるチコちゃんの毛の感触。僕の顔に何度もぶつかってくるチコちゃんの濡れた鼻の頭。僕も嬉しくて嬉しくてたまらなかった。

そして、そんな激しい感情に揺すられて、僕は目を覚ました。チコちゃんのいない現実の世界へ。ここがボストンの一人暮らしの寮の部屋で、チコちゃんはもう死んでいるのだいうことを思い出すのに、若干の間を要した。胸に大量に放出された黄色く暖かい化学物質はまだ残っていたが、現実を理解した後は、その残留物質は僕に嬉しさの代わりに空虚な気持ちを与えた。時計を見れば、起きるつもりの時間の三十分前だった。

僕は夢の続きが見たくて、もう一度眠りに入ろうとしたが、眠ることはできなかった。だから、この夢の記憶が薄れないうちに、それを文章に書き留めることにした。

こうして僕は、夢と現実の間を毎日往復し続けるうちに、再会の喜びと喪失の悲しみを何度も何度も何度も繰り返す。しかしそれでも、こんな身近に、しかも写真などではなく五感を伴って死者と再会できのは、とても嬉しいことだ。

これからもチコちゃんには気兼ねなく、僕の夢に会いにきて欲しい。

追記: この日記を書き終え、アップロードした後、ふと気付いた。今日、まさに今日が、チコちゃんの、五度目の命日だ。

2008/7/26 Saturday

おじいちゃん、ありがとう。

Filed under: しんみり — ono @ 14:06:35

おじいちゃんが死んだという知らせを聞いて、僕は飛行機に飛び乗り、16時間のフライトの末に成田空港に着くと、大きなリュックを背負ったまま、おじいちゃんのいる斎場へ直行した。

斎場は街の賑やかさからは少し隔たった平和島公園の一角にあり、僕が到着した夜8時には、通りを行き交う車の音の他は、背後にある公園の黒い木々からセミの声が聞こえるのみだった。その闇からぬうっと浮かび上がるように、真っ白の大きな看板が玄関に立っていて、そこにはまだ墨汁が乾ききっていない黒光りする毛筆で、「村上光一葬儀式場」と書かれていた。それを見た瞬間、今までは1万キロの距離によってボヤけていた「おじいちゃんの死」という情報は、この黒と白と黒のコントラストのように明瞭な事実となって、屹然と僕の前に立ち現れた。僕の心は逃げられないようにきつく縛り上げられ、縄目がグイグイと音をたてて心に食い込んで行く感じがした。

その縄に引きずられるように斎場の中に入ると、すでに葬儀の準備は整えられていた。誰もいない部屋には椅子が整然と並べられ、花で飾られた祭壇の前には、白い棺が寂しそうに置かれていた。

若干の躊躇の後、棺にある観音開きの窓を開けると、その中でおじいちゃんが目を閉じて静かに眠っていた。眼鏡をかけたままなのは、きっとおばあちゃんの心遣いだろう。四角い顔にぼってりした鼻。重たそうな瞼に柔らかそうな耳。禿げた頭に僅かの白髪。全てが元気だった頃と変わらない、優しい寝顔だった。これこそ最も明瞭な事実の提示であるはずなのに、その顔を見て、僕は逆に安堵感を覚えた。心を縛り付けていた縄がするすると解けていくように感じた。僕は棺の蓋を開け、おじいちゃんの冷たい頬に触れながら、「ただいま」と言った。

翌朝の葬儀には、ごく親しい身内ばかり、15人ほどが集まった。ほとんどが関西の人で、久々の再会だったこともあり、軽快な大阪弁で話は弾み、笑いが絶えず、まったく湿っぽくない葬式だった。

「ケンゴおじちゃんに続いてパパおじちゃん(おじいちゃんのあだ名)も逝きはって、上の世界はずいぶん賑やかやろうなあ」と誰かが言う。母は、僕が寝坊して飛行機を乗り過ごしたエピソードをわざわざ言いふらして回り、「うちの息子はどうも抜けててねぇ」と笑いのネタにすれば、大阪から車で駆けつけた叔父は、東名が通行止めだったので下の道で箱根を越えてきたそうで、「久々に山を走って楽しかったわァ」などとおどけた。

しかし、式が始まり、ナンマイダブと念仏が唱えられると、さすがにみんな静まりかえり、すすり泣きさえ聞こえた。出棺の前、おばあちゃんが便箋を広げ、涙に声を震わせながら、「愛する良人(おっと)」への感謝と、一緒に連れ添った60年の思い出を書いた手紙を読み上げるのを、涙なくして聴く人はいなかった。

人が多い東京では焼き場も予約がぎっしりだそうで、葬儀は滞りなく進められ、おじいちゃんは定刻通りに焼き場のエレベーターに入っていった。

おじいちゃんに少々の熱さを我慢してもらっている間、僕らは冷房の効いた待合室で昼食。その席で叔父が立ち上がり、スピーチをした。
「オヤジはほんま立派な男でして、強い奴には噛み付いたけれども、弱い者にはいつも味方でした。僕は若い頃、オヤジとよう喧嘩して、心の距離が開いた時期もありましたが、大人になって年を取るにつれて、僕もオヤジみたいな男になりたいな、と思うようになりました。」

それに続いて、おばあちゃんがヨイショと立ち上がり、遠路はるばるよう来てくれはった親戚の皆々様本当に有難う云々と、気合を入れてスピーチを始めたのだが、絶妙のタイミングでピンポンパンとアナウンスが入り、「村上光一様のご遺族様、ご収骨の準備ができました」と爽やかな声がスピーカーから流れたせいで、おばあちゃんの話は完全に腰砕け。どんな些事も拾いあげてコントに仕立ててしまうのが関西人気質で、「ばあちゃんの長話にえぇ落ちが付いたわァ」とすかさず合の手が入り、これには一同大爆笑だった。

収骨室へ行くと、おじいちゃんは真っ白な骨になってエレベーターから出てきた。それをみんなでわさわさと箸で拾い、骨壷に入れていくと、特大の壷はすぐに一杯になった。焼かれている間に崩れてしまうことも多いという頭蓋骨も、きれいにお椀の形を留めていて、「オヤジは頑固者やったけど、頭の骨までカチンコチンやったんや」と叔父が言うと、お骨を囲んでまた笑いが起きた。

こうして「パッケージプラン」の簡素な葬儀は手際よく終わり、おじいちゃんは白い布がかぶさった骨壷に収まった。タクシーに乗って帰途につく人たちの顔にもう涙はなく、皆口々に「ええお葬式やったわ」と笑顔で振り返った。
「派手すぎず、寂しすぎず、おじいちゃんらしい式やったなぁ。」
「あの若いお坊さんの声も良かったし、葬儀屋のお兄ちゃんも誠実やったし、パパおじちゃんもきっと喜んでるわぁ。」

皆、悲しみを分け合いつつも、決して後悔も悲壮感もない。賑やかな笑い声に溢れた式は、喪失への悔い恨みではなく、おじいちゃんが楽しく逞しく生きた84年の人生への祝福だった。唱えられた念仏は、癒されぬ魂への鎮魂歌ではなく、皆を愛し皆に愛された幸せな魂への賛美歌だった。おじいちゃんもきっと天国で、皆に混じって、あのガラガラ声でガハハと笑っていたのではなかろうか。

翌朝、僕は慌しく成田空港へ向かった。日本滞在はたったの二泊、最短記録の更新だ。散々泣き、散々笑ったあとで、ボストンへ向かう飛行機に乗る僕の心の中にあったのは、もはや悔いでも無念でもなく、ただひたすら、優しかったおじいちゃんへの感謝だけだった。

おじいちゃんは誰にでも優しかったが、初孫の僕はとりわけ可愛がってもらった。父方の伯母が打って寄こした電報にはこう書かれていた。
「…雅裕君の誕生の際、大阪の家でお会いした時のお父様の笑顔が忘れられません。心からご冥福を…。」

僕の誕生を祝い、成長を喜び、僕が病気をすれば自分が病気になるほど心配し、僕が大学に入った時は自分のことのように嬉しがってくれた。僕が言葉を喋る前から膝の上で六甲颪を教え込み、結果僕は阪神ファンになった。乗り物好きの僕に飛行機を見せるため、よく車の助手席に乗せて伊丹空港まで連れて行ってくれた。電車で出かける時、幼稚園児は運賃を払わなくていいのに、わざわざ子供用切符を買い与えてくれた。丸印に「小」と印刷された切符を握り締め、僕はなんだか大人になった気分で、とても嬉しかった。

おじいちゃん、本当にありがとな。僕はこれからも頑張るから、よう見といてや。

2008/6/19 Thursday

「犬 痴呆 鳴く 迷惑 保健所」

Filed under: しんみり — ono @ 14:35:51

アクセス解析を見たら、「犬 痴呆 鳴く 迷惑 保健所」という検索キーワードでこのブログに辿り着いた人がいたことを知った。

飼っている犬が老いて、呆けて、鳴いて、手に負えなくなって、保健所に持っていこうとしているのだろうか。人それぞれ、犬それぞれ、いろいろな事情があるだろうから、巷に流布している道徳を無理やり押し付けて、「それはいけないことだ」と断罪することはできない。人間と違って犬は老人ホームに預けるわけにはいかないし、仕事があるから一日中介護できない、鳴いてご近所に迷惑になる、そんな仕方ない理由があったのかもしれない。

それでもやはり、僕は過去に可愛がっていた犬を失った経験を持つだけに、このような検索ワードで飼い犬の処分方法を探している人がいたことを知ると、なんとも悲しい気持ちになってしまう。

チコちゃん

間違いなく世界で一番かわいい犬だったチコちゃんが死んだのは、もう三年半も前のことだった。キャバリアという犬種は生来心臓が弱い子が多く、チコちゃんも例に漏れずに心臓病を患っていた。

その日、チコちゃんが急に悲鳴をあげて倒れ、母と妹が慌てて病院に連れて行った。酸素吸入と注射で小康状態を取り戻した後、病院の先生はその後の処置について、母と妹にこう尋ねた。
「もし今晩入院させれば快方に向かうかもしれないが、夜のうちに死んでしまう可能性もあります。しかし、もし家に連れて帰れば、おそらく今晩も持たないでしょう。どうしますか?」

どうしようか迷っている母と妹に向かって、チコちゃんは酸素室の透明な容器の内側から、目でこう訴えたそうだ。
「寂しいよ、置いて行かないでよ。」
それを見て、二人はチコちゃんを家に連れて帰ることに決めた。そして、酸素室から出し、母が抱き上げた瞬間、チコちゃんは目を見開き、手足を硬直させ、そして力を失った。一番好きだった母の腕の中で迎えた、最期だった。

僕がチコちゃんの死を知ったのは、バイトから帰宅したあとだった。その晩はお気に入りだったリビングルームの寝床にチコちゃんを寝かせ、それを家族四人で囲み、泣きながら彼女の思い出を語り明かした。

「ああやって寝ている姿、生きている時とちっとも変わらないね。あの怠け犬は、一日中あそこ寝ていたもんね。」
「キッチンの裏の犬小屋よりも、みんなが見えるあの寝床が好きだったんだよね、チコちゃんは寂しがりやだったから。」

翌朝、父が仕事に出る前に、家族四人で庭にチコちゃんを埋めた。小さなチコちゃんが入る穴は、すぐに掘れた。穴の底にタオルに包んだチコちゃんを寝かせ、好物だった鳥のササミと、「さくうま」という犬用スナックを、たくさん添えてやった。
「そんなに山盛り、チコちゃん食べきれないよ。」
と妹が言うと、皆、泣きながら笑った。

最後に、タオルを少しめくって、顔を見た。本当に可愛かった。手で少しずつ土をかけていったのに、あっという間にチコちゃんは見えなくなった。

そんなことを思い返すにつけ、チコちゃんは本当に幸せな犬だったと思うし、僕らも本当に幸せだった。たった九年の短い命だったけれども、最期までチコちゃんと一緒にいれた幸運は、どんなに感謝しても足りないくらいだと思う。

「犬 痴呆 鳴く 迷惑 保健所」、こんな検索ワードを見つけたとき、保健所の暗く狭いガス室の中で、他の大勢の犬達に混じって、震えながら鳴いているチコちゃんのイメージが、ふと脳裏によぎった。彼女はこう、目で訴えていた。

「寂しいよ、置いて行かないでよ。」


追記: 前述の検索ワードに引っかかったのは、恐らくこの記事

2008/2/29 Friday

大阪のおじいちゃん、おばあちゃん

Filed under: しんみり — ono @ 17:30:36

織田作之助賞の授賞式で大阪を訪ねた翌日、十数年ぶりに「思い出の場所」に行ってきた。

大阪府茨木市穂積台。「大阪のおじいちゃんおばあちゃん」と呼ぶ、母方の祖父母が住んでいた町だ。幼稚園や小学校の頃は、夏休みや春休みの度に遊びに行き、何週間も大阪のおじいちゃんおばあちゃんの家で過ごした。母が妹の出産で大変だった頃も、大阪のおじいちゃんおばあちゃんの家に預けられた。僕は二人にとって初孫で、とりわけかわいがってもらった。僕が東京育ちなのに阪神ファンなのは、物心付く前からの、二人の「刷り込み教育」の成果だ。

彼らの家の周辺はそれなりの住宅街だったが、駅から遠いせいでゴミゴミとはしておらず、車の通りもまばらで、子供が平気で車道で遊んでいるような場所だった。おじいちゃんおばあちゃんの家から西へ100メートルほど行くと滑り台のある公園があり、東へ100メートル行くと「ひっつきむし」(オナモミ)が生えている空き地、南は崖なので道は通じておらず、坂を下って北へ100メートル行くと従兄弟の家。この半径100メートルの半円が、僕の全行動範囲だった。

その半円の外には、2kmくらい歩けば万博記念公園があり、よくおばあちゃんに連れいってもらった。必ず途中のパン屋でパンの耳を一袋もらって行き、鯉や鳩に撒いた。臆病な僕は、太陽の塔の顔が怖くて正面から見ることができず、エキスポランドのジェットコースターの音を聞くだけで泣き出した。一方、伊丹空港に勤務していたおじいちゃんには、よく飛行機を見に空港に連れて行ってもらった。おじいちゃんの車に乗せてもらう時、僕はいつも座布団を三枚重ねて助手席に座った。おじいちゃんの運転は荒いから、とはいつも不安そうだったが、実家には車がないこともあり、僕にはそれが楽しみで仕方なかった。

おじいちゃんは若い頃はスポーツマンで、父方の祖父がひょろっとしているのと比べ、がっしりとした体格をしていた。また、彼は筆まめな人で、阪神タイガースのこと、ラグビーのこと、若い頃に漕いでいたボートのこと、そんな話を葉書に細かい文字でびっしりと書いて、毎週送ってくれた。

僕の動物好きは、おばあちゃんから遺伝したものだ。昔、おばあちゃんは「チビコ」という元気のいい犬を飼っていた。地面を掘るのが大好きな犬で、いつも鼻の頭が泥だらけだった。僕は五歳の頃、首の腫瘍で大手術をしたのだが、それが治るのと入れ替わるようにチビコは癌で死んだ。「雅裕の身代わりになってくれたんや」とおばあちゃんは言った。チビコがいなくなってしばらくして、野良猫が庭でぎょうさん仔猫を産んだ。おばあちゃんは一番元気のいい一匹だけを残し、あとは孫たちに内緒で保健所に引き取ってもらった。残った一匹は「ラッキー」と名付けられ、 ラッキーのお母さん、叔母さんと共に庭に住み着いた。おばあちゃんはとても可愛がり、猫達もよくなついた。


(↑ミニ四駆を走らせた溝。向こうのフタの下に入ったっきり、出てこなくなった。)

十数年前、僕が中学生の頃、大阪のおじいちゃんおばあちゃんは、母を頼って東京へ引っ越してきた。家も車も売り払い、猫たちはお隣さんに預けた。新居は僕の実家のすぐ近く、大田区の住宅街のど真ん中の、2LDKの賃貸マンションだった。元の家にあった仏壇は大きすぎるからと、新しく小さな仏壇を買い、位牌を移した。するとおばあちゃんの夢に仏様が出てきて、「狭い、狭い」と言ったそうだ。

それでも、自分の娘と孫たちのそばに住めるのは、二人にとっては嬉しいことだったようだ。よくお互いの家を行き来し、チコちゃんミーミもよくなついた。正月も一緒に祝った。船旅が好きで、しょっちゅう二人でクルージングを楽しんだ。 相変わらず大阪弁は抜けなかったが、東京の暮らしにも慣れ、それなりに「第二の老後」を楽しんでいるようだった。

数年して、おじいちゃんが癌を患った。発見時にはだいぶ進行していたが、肺を3分の2も切り取る手術の末、なんとか命は助かった。しかしそれ以後はすっかり弱ってしまい、大好きだった船旅にも行けなくなった。僕が留学してからは、日本に帰るたびに元気がなくなっていくのが分かった。野球好きのおじいちゃんに買って帰ったレッドソックスのTシャツがダボダボで、こんなに小さくなってしまったのかと悲しかった。痴呆も進み、昨年から老人介護施設に移った。一人暮らしになったおばあちゃんのマンションを訪ねた時、「おじいちゃんは情けなくなっちゃったねぇ」と溜息をつきながら彼女は呟いた。介護の疲れか、彼女の腰が随分と丸くなったことに気付いた。


(↑おじいちゃんおばあちゃんの旧家)

織田作之助賞に応募した理由は、ひとつには大阪に縁を感じていたからだった。元々、授賞式のついでにおじいちゃんおばあちゃんの旧家を訪ねる考えはなかったのだが、御堂筋線のアナウンスで「せんりちゅうおう」という地名を聞いたとき、遠い昔に聞き覚えがあるその響きが僕の脳の奥をくすぐって、突然行くことを思い立ったのだった。

おじいちゃんおばあちゃんの家の辺りは、昔は駅から遠くて不便だったが、モノレールが開通して随分アクセスがよくなった。駅を降り、郵便屋に道を聞きつつ歩くと、よく見覚えのある道に出た。景色は変わらないくせに道がやけに狭く感じるのは、僕が大きくなったからか、それともアメリカ帰りだからか。ひっつきむしが生えていた空き地は駐車場になり、その目の前に巨大なマンションが建っていた。周りを見渡せば、他にも見慣れない大きなマンションがたくさんある。モノレールの効果は大きい。路上で小さな女の子三人が仔犬と遊んでいた。「モコはな、ちゃんとお座りができるんやで」と楽しそうに話してくれた。去り際に、少し離れて座っていた若いお母さんがこちらに向かって会釈した。

池の端に沿って進み、従兄弟の家があったマンションを右に見て坂を登れば、おじいちゃんおばあちゃんの家はすぐそこだ。昔、大きな荷物を抱えて東京から大阪に遊びに来たとき、わくわくしながらこの坂を登った。すぐそこにおじいちゃんおばあちゃんが待っているんだ、と。その坂を今、期待と不安の入り混じった気持ちで登っている。まだ家はあるだろうか、誰が住んでいるのだろうか、猫はまだいるだろうか、と。

おじいちゃんおばあちゃんの家は、昔と全く変わらない外観で、そこに建っていた。嬉しくて、写真を撮り捲くった。元気な頃の二人が中で待っている気がした。呼び鈴を押せば、「雅裕君、よく来たねえ」と二人が玄関から出てくる気がした。

(↑ 小さい頃、怖くて正視できなかった太陽の塔。 モノレールの中の僕を睨んでいた。)


(↑モコと女の子達)


(↑ひっつきむしが生えていた場所)

東京に戻った翌日、大阪の写真を印刷して、おばあちゃんに見せに行った。まだ家がそのまま残っていることを喜んでいた。「地震でだいぶ傷んだ家なのに、いい値段で買ってもらってねえ・・・」と話した。

その後、おじいちゃんのいる羽田の老人介護施設に向かった。春一番が吹き荒れ、京浜東北線が止まり、道は大変な混雑だった。タクシーで施設に着くと、ちょうど午後の休憩の時間で、おじいちゃんは他の数人の老人達とロビーに座っていた。皆、何も喋らず、テレビや窓の外をぼーっと眺めていた。声をかけると、おじいちゃんはびっくりした顔で僕を見上げ、フガフガ言いながら細い手を伸ばして握手を求めた。僕は早速大阪の写真を見せたのだが、彼は全く関心を示さない。母曰く、目の前にいる人は認識しても、写真や文章は理解できないそうだ。

僕はおじいちゃんの車椅子を押し、最上階のラウンジへ向かった。羽田空港の滑走路が見えるこの場所は、飛行機が好きなおじいちゃんの特等席なのだ。離陸し、着陸し、離陸し、着陸する飛行機を見ながら、おじいちゃんは何度も「雅裕君、大きくなったな」と同じフレーズを繰り返した。何度目かに僕は吹き出して、「おじいちゃんが小さくなっちゃったんだよ」と答えた。

[追記: 2009-2-9] この記事を書いた5ヵ月後、おじいちゃんが他界した。

そして今日、エキスポランドの閉園が決まったとのニュースを見た。

大事な人が、一人、また一人、いなくなる。思い出の場所が、ひとつ、またひとつ、消えてゆく。時間が経つとは、そういうことなのか。

2008/2/5 Tuesday

さよならだけが人生だ

Filed under: しんみり, 留学 — ono @ 19:55:07

土曜日の朝、MITで一番お世話になった先輩を、空港で見送った。

彼は恐らく、両親以外で僕の今まで人生に最も大きな影響を与えた人だと思う。僕が留学という道を選ぶ直接的なきっかけを与えてくれたのは、間違いなく彼だった。留学への漠然とした憧れだけをぶら下げながら、具体的なアクションを何も起こすことなくモラトリアムを謳歌していた大学三年の夏、日本に帰国中の彼と出会った。彼が語ってくれた留学の話は、まさに目から鱗だった。アメリカの大学院では、国籍に関係なく、学費を免除され生活費まで支給されながら勉強することができることを知り、もはや憧れるだけでアクションを起こさずにいる理由を失った。挑戦すべき目標が定まった。僕の人生が幹から枝分かれした。

MITに来てからも、彼にはお世話になり続けた。授業や研究のアドバイスから確定申告の方法まで、嫌な顔ひとつせずに相談に乗ってくれた。僕が今までMITで生き残ってこれたのも、彼に負うところが大きい。

彼はMITの航空宇宙でPhDを取得し、今週からNASAのJPLで働くそうだ。NASAは9・11以降は外国人を滅多なことでは雇わなくなった。その慣例を破っての就職は、彼の傑出した能力の証左であり、ボストンの日本人コミュニティーの誇りだ。

一昨日の空港には、早朝だというのに12人もの人が見送りに集まった。重量制限ぎりぎりの荷物を抱えて、彼は保安検査のゲートの中へ去って行った。空港からの帰りの車は一人少なくなった。寂しいのはもちろんのこと、いままでみんなが頼ってきた柱が抜けてしまった不安も感じた。

翌日も、別の先輩を空港に見送った。STeLAでお世話になった先輩で、彼のプラグマティックな物の考え方と、勉強熱心で決して知ったかぶりをしない姿勢を非常に尊敬している。彼は半年前にMITを卒業して日本に戻っていたのだが、先週は学会でボストンに来ていたのだ。半年前に空港での見送りをし損ねたので、その仕切りなおしだった。

前日と全く同じ場所で、彼を見送った。恥ずかしがりの彼は、照れくさそうにゲートに入っていった。また一人少なくなった帰りの車の中で、次は誰だろうね、俺はまだまだかな、そんな話をした。

時間は過ぎ、ぽつりぽつりと人が去ってゆき、残った人たちが1マスずつ進んで、できたスペースに新しい人が入ってきて、そうして日常は循環し、時間は過ぎ、もう1マス進むとまた誰かが去っていき、新しい誰かが入ってきて、それは自分が去る時まで続く。

「さよならだけが人生だ。」

だからこそ人生は面白いんだ。

.

2007/9/27 Thursday

十五夜

Filed under: しんみり, 日々徒然 — ono @ 13:37:11

15night.jpg

日本の知人からのEメールで、今晩は十五夜だったと気付く。窓の外を見ると、ちょうど川の向こうのボストンの夜景をバックに月が昇ってくる。秋の風に波立つ川面に月の光の筋が映る。きれいに写真を撮ろうと試行錯誤する間に、月はどんどん昇っていく。川面の反射は淡くなっていき、月は窓の視界の外へと逃げていく。

写真をアップしようとしてmixiにアクセスすると、トップページに見慣れない”Happy Birthday”のバナーがある。日本時間では既に僕の誕生日になっていたことに気付く。十五夜の月も自分の誕生日もインターネットに教えられた事に、一万キロの距離を感じる。

2007/3/30 Friday

さまざまのこと思い出す桜かな

Filed under: しんみり — ono @ 13:04:34

「さまざまのこと思い出す桜かな」 松尾芭蕉

実家の近所のガソリンスタンドの、バス通りを挟んだ向かいに、大きな桜の木がある。見事な枝振りの立派な木で、もしもこの木が京都の名の知れた寺の境内にあったならば、「醍醐桜」、「臥龍桜」などと、何かたいそうな名前でもついていたことだろう。

その桜の木の下で、五年前の春、飼っていた猫が、車にひかれて死んだ。

mimi.jpg

その猫がうちへ来たのは、僕が大学一年の頃、ゴールデンウィークでオーストラリアに発つ前日。旅行の準備に一家がいそしんでいるときに、玄関のベルが鳴った。開けると、中学生の女の子が傷だらけの子猫を抱いて立っていた。
「すみません、お宅の前で、子猫がカラスにつつかれて倒れていたんです。」
小さな猫だった。白と黒のふさふさした毛の中に、真っ赤な痛々しい傷がある。その小さな毛のかたまりは、目を閉じて、体全体で呼吸をしていた。

見捨てるわけにもいかず、結局我が家で引き取ることにした。ただでさえ旅行前日で忙しいのに、面倒がひとつ増えた。しかしこの仔猫、ピクリとも動かずに、ただただ息をしているだけだ。何も食べない。水すら飲まない。

翌朝、飼い犬のチコちゃんと一緒にその猫を祖父母に預け、オーストラリアへ出発した。帰ってくる頃には死んでしまっているかもしれないな、そんなことを思いながら。

——

旅行から帰ってきて、犬と猫を引き取りに行くと、家族全員が目を丸くした。あの瀕死の仔猫が、部屋中を鉄砲玉のように走り回っているのだ。嬉しいのやら面倒なのやら、結局うちで飼うことになった。ミー、ミー、と鳴くから、「ミーミ」と名づけた。

そうして、ミーミとの暮らしが始まった。恐ろしく元気な猫だった。部屋中を走り回り、食べ物を奪い、犬や人間に爪を立てて飛び掛った。机、本棚、ピアノ、あらゆる物の上によじ登り、その上に飾ってある物を蹴飛ばし、あるいは破壊した。

ミーミに一番大きな被害を受けたのは、犬のチコちゃんだった。おとなしくて鈍クサいチコちゃんは、ミーミの格好のおもちゃだった。物陰に隠れ、何も知らないチコちゃんが尻尾を振って通り過ぎると、爪を立てて背後から飛び掛る。チコちゃんが尻尾を丸めて逃げると、さらにそれを追いかける。この犬も一応、狼の子孫なはずなんだけどな…。

mimi2.jpg

仔猫の成長は早い。夏にはもうすっかり大人の体格になった。家で飼うには元気が良すぎるこの猫は、庭に放すことにした。庭の生態系にとっては悲劇だったようで、それ以降、庭にネズミやセミの死骸が散見されるようになった。

秋。ミーミの行動範囲は相当に広がった。チコちゃんの散歩に遠くまで付いてきた。家から交通量の多い道路を隔てた場所でも、ミーミを見かけた。

冬。ミーミが失踪した。一週間以上も戻ってこない。猫は死んだ姿を晒さない、という。もしかしたら、どこかで死んでしまったのかもしれない。そう思った。
それが、十日ほど後、近くの駐車場にひょっこりと座っているのを見つけた。その後すぐ、近所の細川さんという家にお世話になっていたことが分かった。首輪が木に引っかかって動けなくなっていたところを助けてもらったそうだ。そして細川さんから、「マリーちゃん」という名前ももらっていた。ミーミはオスなんだけどな…。

春。ミーミは、二つの名前を使って、二重生活を謳歌した。二つの家、二度のエサ、二倍の愛情。おかげで見事に肥えた。人懐いミーミはまた、近所のちょっとした人気者になった。通行人にゴロンと腹を見せて寝転がり、遊んでもらうのが好きだった。

三月の後半、僕は韓国に旅行した。旅行中、妹からのEメールを見て、愕然とした。
「ミーミが車にひかれて死んだ。」
素っ気ない、たった一行のメールだった。

mimi3.jpg

旅行から帰ると、ミーミがお気に入りだったモミの木の下に、小さな墓ができていた。旅行中に気持ちの整理をしてから帰ってきたはずなのに、そのベニヤ板の墓標の前に座ると涙が溢れ出た。何で死んだんだ。こんなに早く。もっとおとなしくしていれば事故になんてあわなかったのに…。

母の話によると、近所のガソリンスタンドの前のバス通りでミーミはひかれたらしい。その後すぐ、細川さんが偶然そこを通り、ミーミを見つけた。父、母、妹、祖父母、それに細川さんの六人でささやかな葬式をし、そしてミーミのお気に入りの場所だったモミの木の下に埋めたそうだ。

その話を聞いて、ミーミが死んだ場所に行ってみた。ガソリンスタンドの向かいの桜の木が、例年より少し早く満開になっていた。

春に生まれて、春に死んだ。たった一年の命だった。

mimi_sakura.jpg

「さまざまのこと思い出す桜かな」

ボストンはようやく川の氷が溶けたが、桜の季節はまだまだ。一方、東京は桜が満開、というニュースを聞く。

人それぞれ、桜を見るたびに何か思い出すことがあると思う。僕が思い出すのは、たった10ヵ月間だけ僕を楽しませてくれた、あのやんちゃな猫のことだ。


追記(2007/7/30): ミーミが死んだ後で、あの子の写真がほとんどないことに気付いた。今、僕のPCのハードディスクに入っているのは、上に載せた三枚が全て。はじめの二枚はミーミの貰い手を捜していた頃、ポスターを作るために撮った写真。三枚目は、実家にある写真を含めてもおそらく唯一の、大人になったあとのミーミの写真だ。 チコちゃん(犬)の写真は山ほどあるのに、なぜミーミの写真はこんなにも少ないのだろうか。まずもってあの子は、カメラを向けられてじっとしているような子ではなかった。捕まえるのでさえ至難の業なのだから、ポーズを取らせて写真を撮るなど不可能に近い。実際、一枚目の写真はモップで、二枚目はチコちゃんで、ミーミの気を引いている隙に撮った写真だ。

反対に、チコちゃんの写真はこの上なく撮りやすかった。常に寝ているからだ。それでもカメラを向けると、目線に気付いて、この上なく迷惑そうにのっそりと起き上がることもあるのだが、「撮りたければ撮れば」という感じでまたすぐに寝てしまう。そんなわけで、チコちゃんの写真は数だけは多いのだが、ほとんどが寝ている写真で、起き上がって活動している写真となると、これまた非常に少ない。

またミーミは、一緒に過ごした時間も短かった。たったの10カ月。写真を満足に撮る時間もくれずに逝ってしまった。それこそまさに、桜の散るように。


追記(2007/8/19): 「ミーミの桜」は、実は二本ある。二本の見事な桜の木が、枝と枝を重ね合わせて満開の花をつける。それは素晴らしかった。

きのう、半年振りに帰省し、そのうち一本が切られたことを知った。隣接する駐車場に何かを建てるらしい。来春はミーミの桜は半分になる。残る一本も根が傷つけられたりしていなければいいのだが。半年に一度しか帰省しないと、帰るたびに何かが変わっている。行きつけだった弁当屋が潰れた、チコちゃんの墓に草が茂った、「急行」ができて、最寄り駅を通過するようになった、などなど。

寂しい、と感じるのは、過去への郷愁からだけではない。自分が変化から取り残されているのだ、と気付くことが、寂しさを余計に膨ませるのだ。

2007/2/27 Tuesday

祖父

Filed under: しんみり — ono @ 12:51:04

先々週の木曜日。ペルーから帰国し、受信トレイに溜まった数百通のメールを機械的に処理していた。その中に、親からのメールが一通。手短に、父方の祖父の急死を告げていた。

慌てて親に電話したが、既に通夜が済んだ後だった。翌朝にボストンを発っても葬儀には間に合わないため、日本には帰らないことにした。電話で状況を伝え聞いただけでは全くと言ってよいほど実感が沸かず、涙の一滴すら出なかった。感じたのは、悲しみというよりむしろ、空しさだった。

今朝、家を出るときにメール・ボックスを見ると、親からの郵便が届いていた。研究室に向かう途中に歩きながら封筒を開けると、祖父の写真と便箋二枚の手紙が入っていた。手書きの文字で綴られた父と祖父との思い出を読むと、急に涙が出た。二週間遅れの涙だった。

金沢大で土木工学の教授をしていた祖父は、真面目で勉強熱心な人だった。九十歳を過ぎてからワープロを習得し、論文を執筆した。耳が遠くなってからも、NHKのラジオ番組でフランス語を勉強していた。

祖父は、おしゃべりな僕とは似ても似つかない、寡黙な人だった。ぼそり、ぼそりと喋る祖父の言葉は、一度も感情的になったことがなく、また人のことを悪く言ったことがなかった。口数は少ないけれども、非常に行動的な人で、八十を過ぎても山に登り、スキーをした。九十三歳の時、一緒に中国を旅行をした。

明治生まれの祖父は、せっかちな父とは対照的な、非常にマイペースな人だった。十年ほど前、尾瀬に行ったとき、カメラを構えたままなかなかシャッターを切らない祖父に痺れを切らした父が、早く行こうと催促すると、
「あの雲がどくのをまっているんだよ。」
と答えた。

せっかちな父も、おしゃべりな僕も、祖父と同じく工学の道に進んだ。祖父は鉄道、父は光、僕は宇宙。専門は違えども、技術で世の役に立とう、という志は同じだったのだと思う。

祖父は、叔母と同居して介護を受けることを頑固に拒否し続け、祖母に先立たれた後も金沢の郊外の家に一人で住み続けた。直前まで変わった様子も無く、「葉っぱが落ちるかのように」静かに亡くなった。

僕がMITに行くと決まったときも、祖父は静かに喜んでくれた。こっちで頑張って学位をとることが、彼への一番の供養だと思う。


追記(2007/7/25) きのう、やっとこさ修士論文のドラフトを書き上げた。何とか、学位は取れそうだ。一ヵ月後、修士号を引っさげて、祖父のいなくなった日本に帰る。きっと喜んでくれると、信じている。

2007/1/2 Tuesday

お湯は少し冷ましてから

Filed under: しんみり — ono @ 12:44:09

風情が感じられないボストンの正月、お茶くらいはオイシイものを飲むか、と思い、母が日本から送ってくれた煎茶を開封。するとパッケージに張り紙が。

「煎茶。お湯は少し冷ましてから」

一緒に住んでいるときは激しく口うるさい母親だったけど、離れて暮らして、外国で寂しい正月を送っていると、逆にそのオセッカイなまでの気遣いが心に染みます。

お湯を冷ます間、フットボールをTVでぼんやり観戦。そういや今頃、日本では箱根の坂を登ってる頃でしょうか?


追記(2007/7/7)留学してから半年後の正月に、初めて日本に帰省した。その時、年末の歌番組で流れていた、さだまさしの「案山子」という歌が、妙に心に残ったのを覚えている。というのも、その歌詞が、母親が頻繁に送ってくるメールの内容とそっくりだったからだ。元気でいるか 街には慣れたか 友達できたか
寂しくないか お金はあるか 今度いつ帰るか

今までは小遣いをくれと言ってもなかなかくれなかったのに、親元を離れたとたん、向こうから「お金はあるか」と聞いてくる。それを聞くメールの口調が妙にしんみりしている。あんなに毎日息子を怒鳴り散らしていた母親が、急に老け込んでしまった感じがした。

僕はまだ親になったことはない。しかし、「親」とはかくいうものなのだ、というのが、留学して以降、少し分かった気がする。

Next Page »

Copyright (C) 2005 Masahiro Ono
HTML convert time: 0.432 sec. Powered by WordPress ME