2011/5/9 Monday

駆け込み婚 一部始終記

Filed under: やったぜ!!, 日々徒然 — ono @ 4:22:50

世間はイギリスのロイヤル・ウェディングで盛り上がっているが、僕も2ヶ月ほど前、ボストンの自宅アパートのラウンジで、仲の良い友人たちのみを集めて簡素な結婚式を挙げた。婚約をしたのが式の10日前。式の日取りを決めたのは3日前。ドレスが届いたのは4時間前だ。アメリカまで飛んで来れなかった子煩悩な親へはUstreamで式の模様をインターネット中継した。西海岸の友人たちは「PHD48」なる余興を密かに準備していてくれて、Skype越しに踊ってくれた。まさにIT世代のグローバル結婚式。全てが常識外だったが、涙あり、笑いあり、家族と友人の暖かい祝福に包まれた、最高に楽しく幸せな結婚式だった。この日記は、僕らの「駆け込み婚」の一部始終を記したものである。

wedding_guests

「そんなに結婚を急ぐなんて、きっとデキちゃったに違いない。」そう思われたあなた、残念。結婚を急いだのはビザの都合である。とはいえ、デキちゃった婚を悪く言うつもりなど毛頭ない。どんなに長い付き合いの仲良しカップルだって、結婚とはなかなか下せない重い決断であろう。だから年齢だろうがビザだろうが海外赴任だろうが子供だろうが、背中を押すものが何であれ、清水の舞台から飛び降りて結婚を決めてしまって、結果的に幸せになれるのならば、それでいいのだと思う。

1. いかにして僕らは10日間で婚約したか

結婚20日前。僕は彼女にプロポーズをする決心を固めた。ただし、彼女には気付かれないように、こっそりと。清水の舞台からひとり飛び降りた後、前夜に積もった雪を踏みながら向かったのは、一般的に朝営業の食堂と勘違いされることが多い「ティファニー」という名の宝石屋である。値札を見て意識が朦朧としたが、歯を食いしばって決心だけは繋ぎとめた。一晩お財布とゆっくり語り明かしたあと、翌日もう一度店へ行き、リングを注文した。大学院生のRAの安月給では貯金もロクになく、米粒のように小さな石になってしまったが、それでもきっと彼女は喜んでくれるだろうという確信があった。

結婚13日前。彼女が真横にいるときに店から「指輪が届いた」との電話がかかってきた。バカヤロー、バレちゃうだろと心の中で怒鳴りつつも冷静な対応。「研究室の同僚からシミュレーションが終わったって電話だよ、ははは」などというツギハギの説明をあっさりと信じてくれた彼女の素直さに感謝。店に着き、スタッフに名前を告げると、彼は奥の倉庫から小さな封筒を取ってきた。何重もの包装が解かれ、キラキラと七色に光り輝く小さな石のついたリングが目の前に置かれた時、僕の胸はこみ上げてくる感慨で破裂しそうになった。ふと、遠い未来に年老いた彼女がこの指輪を薬指にはめ、満ち足りた幸せな表情で棺に入るイメージが頭に浮かんだ。縁起でもないと慌ててそのイメージをかき消そうとしたが、この指輪が意味するものはそういうことなのだと改めて思い直した。エメラルド色の紙袋をカバンに入れて自転車をこぎ家へ帰る途中、普段と何も変わらない日常に追われる大勢の人々が、ボストンの肌を突き刺すような寒さに身をすくめ早足で通りを歩くのとすれ違った。彼らの誰一人として、キラキラと七色に光る石の載ったリングが僕のカバンの中に隠れていることを知らないのだ。そう思うと、妙な優越感が僕の中に沸いてきて、顔がニヤけるのを必死に押さえながら、僕は全速力で自転車をこいだ。

結婚12-11日前。彼女とニューヨークへ旅行に行った。理系女子といえども、五番街のティファニー本店へ行きたいとせがむあたり、人並みに女の子である。ショーケースの中の石たちを獲物を狙う猫のような目で眺める彼女に、僕は「まだお金がないからな」などと冷淡に言いながら、心の中ではニンマリと笑っていた。

結婚10日前。僕は前々から、彼女の誕生日であるこの日を決行日と決めていた。僕は二段構成のサプライズを計画した。まずは第一段目。彼女の友達20人ほどに声をかけ、僕の部屋に隠れてもらった。一方の彼女には、二人で一緒に昼食を食べようと言って僕の部屋へ誘った。何も知らずに呑気に僕の部屋へ入ってくる彼女。そこへ皆が突然飛び出してハッピーバースデー。期待通りに彼女は腰が抜けるほどビックリして、チャールズ川に張った分厚い氷がひび割れるほどの声で絶叫し、喜んだ。

そして第二段目。僕は隠していたエメラルド色の紙袋をおもむろに取り出して、彼女の前に跪き、箱を開けてリングを差し出した。一瞬の沈黙。そして彼女は驚きの表情をみるみる崩し、顔をくしゃくしゃにして泣きながら、そのリングを受け取った。僕の狭い部屋は友達の拍手と祝福の言葉で満ち溢れた。皆が帰り、部屋に二人きりになった後、彼女は僕の前で何度も泣いた。知らせを聞いた彼女のご両親も泣いて喜んでくれたそうだ。一方、僕の母からは「韓流ドラマ並みのクサさだね」、妹からは「はらませたの?」とのお祝いの言葉(?)をいただいた。

その夜、二人でバースデー・ディナーを食べに行ったとき、彼女は薬指にはめた指輪を嬉しそうに眺めながら、「もしヒロが私にお金を渡して『好きな指輪を自分で選んで来い』と言ったとしても、私、この指輪を選ぶと思う」と言った。僕はとても嬉しかった。

2. いかにして僕らはそれから10日間で結婚式にこぎつけたか

結婚5日前。数字に強い彼女がふと気付いた。「私たちの200日記念日って、そろそろなんじゃない?」そこで計算してみると、「200日記念日」は五日後に当たることが分かった。僕らはその場で、その日に結婚式を挙げることを決めた。

それにしても結婚は物入りだ。お金もないし、何より時間がないから、贅沢な式をするつもりは毛頭ない。それでもせっかく式を挙げるのだから、Tシャツにジーンズではなく、一通りの体裁を整えたかった。すると、ドレスにベールにティアラにブーケ、僕のほうは就活用のスーツでごまかすにしても蝶ネクタイくらいは必要だ。習慣と産業との癒着を恨む。同時並行で結婚の手続きを進める必要もある。役所で結婚許可証の申請を行い、「200日記念日」に予定が空いているJustice of Peace (司祭の無宗教バージョンのような人*1)を探し、式の会場を探し…。果たして間に合うのだろうか。研究そっちのけで、二人で自転車を飛ばして極寒のボストンを朝から夕方まで走り回った。

ふと、自転車に乗るときに彼女が左手の手袋をしていないのに気付いた。最初は無くしたのかと思った。しかし聞いてみると、手袋を取るときにリングが引っかかって落としてしまうのが恐くて、手袋をはめていないのだと言った。真っ赤でカサカサになった彼女の手を握って、僕はとても嬉しかった。

結婚3日前。どうにか結婚式の日取りと場所を確定させることができた。当初はボストンのPublic Gardenという公園で式を挙げるつもりだったのだが、冬は結婚式を受け付けていないことが分かり(ボストンの冬の寒さを考えれば当然である)、僕が住んでいるアパートの最上階のラウンジを使うことにした。窓からチャールズ川越しにボストンの街が一望できる、申し分ない場所である。「200日記念日」に予定が空いているJustice of Peaceも運良く見つけることができた。

そこで、友達にE mailで「三日後に結婚式を挙げます」と一斉に告知した。人生一度きりの一大事にも関わらず、「今週末に飲もうぜ」という程度の気軽さ。僕は普段から突拍子のない奴と友人たちに認識されていたが、今回はその認識をはるかに凌駕する突拍子のなさだった。今日はエイプリル・フールではないかと慌ててカレンダーを確認した友人もいた。

しかし、式の手はずはおおよそ整ったものの、懸念が一つ残っていた。ニューヨークから取り寄せると言っていたウェディングドレスがこの日になっても届かないのだ。彼女は不安で何も手につかない様子だった。

結婚前日。まだドレスは届かなかった。ドレス屋に怒りの電話をかけて交渉した結果、在庫のあったサイズの大きいものを無料で直して縮めてくれることになったので、そのサイズ合わせのため、二人で自転車をこいで、再度ドレス屋へ向かった。6サイズも大きいドレスを縮めるとのことで、彼女は「ちゃんと仕立ててくれるのか」と不安でたまらない表情だった。

一方、楽天的な性格の僕は、試着室でドレスを着た彼女の美しい姿を鼻の下を伸ばして眺めながら、ますます明日が楽しみになった。ブログでノロけるのもなんだが、純白のドレスに身を包んだ彼女は今まで見たどの花嫁よりも綺麗だった。明日、そんな彼女とみんなの前で晴れの舞台に立てることが誇らしくてたまらなかった。ふと、エリック・クラプトンの曲”Wonderful Tonight”の歌詞の一節が頭に浮かんだ:
“We’d go to a party, and everyone turns to see / this beautiful lady who is walking around with me…”
(パーティーに行けばみんなが振り向くだろう/俺が連れているこの美しい女を一目見るためにさ)

そして僕は、この曲を明日の式後のパーティーで歌おうと安直に思いついた。夕方に研究室に戻るなり、ギターが上手い友人に、クラプトンのソロを一晩でコピーできないか、とメールを打った。無茶にもほどがある頼みを快諾してくれた彼にはただ感謝の一言である*2

その夜、僕は部屋でひとり歌とギターを練習しながら(そのせいでルームメートを寝不足にさせてしまった)、ドレスを着た彼女の姿を思い浮かべつつ、翌日の結婚式が楽しみでならなかった。この日ほど明日のことを楽しみに思った日は、今までになかったと思う。

3. いかにして僕らは夫婦となったか

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朝8時頃に目が覚めた。窓を開ければ天気は快晴。チャールズ川の一面に張った氷に朝日が反射して眩しく輝いていた。まさに僕たちの結婚を祝うのにふさわしい日だ。

午前10時。彼女を美容院へ送るため借りた車で迎えに行くと、彼女はコチコチに緊張した表情で助手席に乗り込んできた。「マリッジブルーになったか?」と僕がふざけて問えば、彼女は真顔で「うん、宣誓の言葉を言い間違えないかとか不安で…」とチグハグな答えを返す。残念ながらそれはマリッジブルーとは呼ばない。午後1時、待ちに待ったドレスを遂に手に入れ、花屋でブーケを受け取り、新婦控え室代わりの僕の部屋へ戻った。

午後3時。新婦にドレスを着せるのは、結婚式の日においてもっとも感慨深い瞬間のひとつではなかろうか。全て自前の安上がりな式で、ドレスを着せるのを手伝う人もいなかったお陰で、僕はその感慨を全て独り占めすることができた。背中のファスナーを引っ張り上げ、くるりとこちらに向かせると、それは綺麗な花嫁だった。彼女の緊張の面持ちが美しさに品を添えていた。僕はその姿を写真に納め、そして抱きしめた。花嫁がこれほどに美しいのは、繭の神秘をウェディングドレスのシルクの糸の中に孕んでいるからだと思う。蚕が白い繭の中で変身を遂げて羽化するように、新婦が日常の装いを脱ぎ捨て、純白のドレスを纏い、そして儀式を終えてそれを脱ぐときには、僕の妻として生まれ変わっているのだ。

午後4時。友達が続々と集まりだした。極貧結婚式につき、会場設営から音楽、写真・ビデオ撮影まで全て友人任せだ。見知った顔たちが、普段のパーティーと同じ要領でテーブルや椅子をどかしながら、「オノが結婚するなんてまるで信じられんな」などと言ってからかう。彼らに祝ってもらえたことを僕はとても幸せに思う。

午後5時20分。UStream中継のセットアップに手間取り、式は20分遅れの開始になった。僕は彼女を部屋の入り口の手前に残し、Justice of Peaceと一緒に入場して、部屋の奥に陣取り、新婦の入場を待った。今まで鳴っていた音楽が止むと、大勢の人でざわついていた部屋が急に静まった。

そして鳴り響いたのは結婚行進曲のイントロのトランペット。ベールにすっぽりと顔を覆った花嫁が部屋の反対側の扉から入場し、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。父親代わりに満面の笑みでエスコートするのは花嫁の親友だ。部屋にいる人は一斉に花嫁の方を向き、フラッシュを浴びせる。皆がその美しさに見とれているのだと思うと、僕の心に優越感を伴う喜びが沸いた。皆の目線から逃げるようにうつむいて歩く彼女は、ベールの下で照れくさそうに笑い、時折上目遣いで歩く先に待っている僕を見た。花嫁が僕に手渡されるまで、とても長い時間に思えた。友人たちに見守られながら長い時間をかけゆっくりと僕へ向かって歩むバージンロードの旅路は、彼女が生まれてから僕と出会うまでの人生を象徴しているのだ。

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そして花嫁は僕の前にたどり着いた。僕は彼女と手を繋いでJustice of Peaceの前に立った。

式のあとの「披露宴」は僕のアパートでのポットラック・パーティー。狭い部屋が何十人もの人でごった返し、足の踏み場も無いほどだった。もちろん席次も式次第もあるわけがない。ただ仲の良い友人たちと飲んで食べて騒ぐだけで、言ってしまえば普段のパーティーと何の変わりも無い。それでも、新郎新婦が壇上で雛人形のように飾られプログラム通りに事が運ぶ形式ばった披露宴より、こっちのほうがよほど僕ららしい「宴」だと思った。

宴が盛り上がってきたタイミングで、僕と友人がギターを持って登場。彼女に内緒で練習していたWonderful Tonightを披露した。
“And I feel wonderful because I see the love light in your eyes…”
こういうクサい演出にも期待通りに泣いてくれる彼女の素直さがいい。弦を指ではじき声を張り上げながら、ティッシュで目を押さえる彼女を横目で見、僕は大満足だった。

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宴にはサプライズもあった。友人がおもむろにパソコンをプロジェクターに繋ぎ、部屋の壁にSkypeの画面を映した。するとそこには西海岸の大学にいる日本人の友達たちが集まってくれていた。そしてなぜか男たちもスカートをはき髪には花を飾っている。彼らはインテリ系アイドル(?)ユニット「PhD 48」を名乗り、いかにも西海岸というハイテンションで「ヘビーローテーション」を踊ってくれた。結婚式を告知したのはたったの三日前なのに、その間にみんなで集まって練習してくれていたらしい。本当に嬉しいサプライズだった。みんな、ありがとう!

そうして賑やかな宴は夜の2時頃まで続いたが、この五日間結婚式の準備で走り回って疲れていた僕は、酔いが回るなり、スーツに蝶ネクタイの格好のままソファーに横になって寝てしまった。皆の笑い声を夢の中でうっすらと聞きながら、僕はとても幸せな気分だった。

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注釈

*1 日本における法的な結婚とは、一方がもう一方の戸籍に入ること、つまり「入籍」をすることに当たる。しかし戸籍制度のないアメリカでは、そもそも「入籍」の概念がない。結婚は個人と個人の契約である。そんな結婚の概念の違いを反映してか、アメリカの制度で結婚するためには、婚姻届に判を押して提出するだけの日本よりも、少々煩雑な手続きが必要となる 。まず、結婚の意志を固めたカップルは、二人で役所へ行き、一通りの書類を書いて、その内容に偽りがないことを役所の係の人に対して宣誓する。二人が結婚の資格を満たしていることが確認されれば、三日間待った後に”marriage license”、つまり「結婚許可証」が発行される。次にカップルは、宗教を持つ人は司祭、持たない人は”Justice of Peace”(通称JP)と呼ばれる州公認の結婚仲立人の立会いのもとで式を挙げ、結婚の宣誓をする。このステップを踏んで初めて、二人は法的に結婚したことになる。つまり、普段着のカップルとJPの三人だけでもいいから、結婚式をしなくては結婚をしたことにならないのだ 。ただし、結婚の制度は州によって大きく異なる。ここに記したのはマサチューセッツ州の制度である。たとえば、ラスベガスが位置するネバダ州では、即日結婚が認められている。マクドナルドのようにドライブ・スルーで結婚できる式場などもあるそうだ。

*2 彼のみならずMITの博士課程にいる日本人は、圧倒的に多才かつ人間的にも素晴らしい人が多い。彼らと親しくなれたこともまた、MITへ来た大きな財産だと思っている。

2008/4/14 Monday

公募ガイド

Filed under: やったぜ!! — ono @ 9:56:50

ちょいと自慢。

「公募ガイド」という雑誌の5月号に載りました!「賞と顔」というコーナー、22ページ目です。書店に立ち寄る機会があれば、是非チェックしてみてください。

2007/9/4 Tuesday

STeLA Leadership Forum 2007 in Tokyo

Filed under: やったぜ!!, コーフン!! — ono @ 8:53:29

さて、どこから書こうか。あれだけ濃い想い出がたった10日間に凝縮していると、どこから書き出したらいいのか見当がつかない。手が付けられない、という方が正しいかもしれない。でも、あんなに素晴らしい10日間を、手の付けられない塊のまま、書かずに放っておくわけにはいかない。書かなくては。

STeLA. Sushi and Teriyaki Lover’s Association. じゃなくて、Science and Technology Leadership Association. 「グローバルな理系リーダーシップの啓発」を目的とした学生団体です。そう、大学院生になってまで、学生団体なんぞをやっているわけです。留学生仲間の思いつきから端を発し、手探りで設立したこの団体。その一年半の努力の結晶が、この8月の終わりに東京で催された、”STeLA Leadership Forum 2007 in Tokyo”です。

発想は単純で、アメリカの学生20人を日本に連れてきて、日本人学生20人と一緒に、10日間カンズメにするという企画。でも単なる異文化交流プログラムでは終わらないのがこの企画のミソです。テーマは「理系リーダーシップ」。参加者が、見学(日産、新日鉄、大田区工場群)、講演(尾身財務大臣 etc)、討論、そして共同作業を通して、環境問題やグローバル化について真剣に考え、将来の世界を科学技術の立場から引っ張っていくリーダーシップを育てるという、まあ何ともケッタイな企画なのです。

フォーラム中の僕の役割は「ファシリテーター」。40人弱の参加者は、6つのチームに分かれて討論や作業をするのですが、そのひとつに朝から晩までご一緒して、彼らの議論を”facilitate”するのが、僕の役目でした。”facilitate”とは、化学反応の触媒のような役目だ、と言うと、「理系」の人には分かり易いでしょうか。触媒は、自分自身は化学反応に関わらないけれども、反応を促す役割を持つ。同じように、自分は議論の内容に関わらないけれども、議論を活性化させるような発言をするのが、ファシリテーターです。そんな、ついつい出しゃばってしまう性格の僕にはなんとも不向きな役割を引き受けてしまったわけです。

ファシリテーターのいいところは、チームやそのメンバーたちの成長を、最も近い場所から観察できること。僕のチームには、5人のメンバーがいました。イスラム教徒のクセに酒飲み、されど確固たる思想を持っているバングラデシュ人”E“(♂)。 見た目はおっとりだけど負けん気が強い中国人”D“(♀)。以上二人が、アメリカの大学からの参加者。日本側からは、照れ屋で口下手だが自分の殻を破らんとする意志を持つ旅人「」(♂)。 ほんわかお兄さんキャラだが芯が強そうな「」(♂)。口数は少ないが早稲田で学生団体を率いる熱い若者「」(♂)。この五人が織り成す、青春ドラマ顔負けの、涙あり笑いあり喜びありの人間成長物語が、この十日間でした。

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(↑Team 5のメンバーたち)

彼らが最初に直面した問題は、やはり、という感じで、コミュニケーションの問題でした。日本人の英語の下手さは認めざるを得ないところで、考えていることの半分も言葉に出来ないし、まずもって流れる議論に割り込んで発言するタイミングすら掴めない。これはまさに、僕が留学直後に直面した苦しみそのものでした。

驚くべきは、彼らの問題発見能力と問題解決能力の高さです。始めは途方にくれていたアメリカ側参加者の二人も、二日目には「聴き方」を覚えました。”E”は日本人に積極的に質問を振ることで彼らの発言を促し、”D”はあえて黙ることで日本人に発言のタイミングを与えるようになりました。日本人の三人も、積極性こそが大事であることに気付き、例え英語が下手でも、臆せずに手を挙げて発言するようになりました。僕が1年もかかったコミュニケーションの問題の解決を、彼らは二日で成し遂げたのです。

次に彼らが直面した問題は、「仕事の進め方」でした。彼らは二日目に手痛い失敗をした。その日の見学をプレゼンテーションにして発表する時間があったのですが、他の全ての班がスライドを完成させて質の高い発表をする中、うちのチームだけは、準備の時間を丸々議論に使ってしまい、スライドすら作ることが出来なかったのです。しかし彼らは、このたった一度の失敗で、すぐに軌道修正をしました。その後、彼らはプレゼンや作業一般の「進め方」について徹底的に議論し、効率のよい議論の進め方や分業方法を考え出しました。その成果は目に見えて表れました。フォーラム最終日のプレゼンテーションを、彼らは入念かつ計画的に準備し、お世辞抜きに、どこのチームよりもスマートで上手くまとまった発表をしました。

フォーラム後半は「チームプロジェクト」に充てられました。各チームが手作りで「ピタゴラ装置」なるものを作りあげ、その技術やテーマ性、芸術性を競う、という企画です。「ピタゴラ装置」とは何か、については、僕の下手な文章で説明するよりも、ビデオを見ていただくほうが早いでしょう。

ビデオへのリンク。なぜか埋め込めない・・・

(↑これは、去年の11月、MITでの同様のイベントに僕らが参加したときの作品です。)

「仕事の進め方」の問題で学んだ彼らは、効率的に作業を進めるため、コンセンサスを取って意思決定をするやり方を捨て、「さ」をTask Managerに任命し、彼に最終的な意思決定を委ねることに決めました。さて、ピタゴラ装置作りで、またも大きな問題が発生します。”D”は非常にアイデア・ガールで、独創的なアイデアを次々に出していきます。しかし、彼女にはものづくりの経験が全くなく、それらのアイデアは、他のメンバーから見れば実現性に乏しいものでした。結局、彼女のアイデアはあまり省みられず、彼女にはフラストレーションが溜まっていきます。目に見えて彼女は機嫌が悪くなり、他のメンバーも彼女に手を焼いている、という感じでした。当然、チームの雰囲気は悪くなり、仕事の効率は落ちます。

最も悩んだのは、Task Managerを任された「さ」でした。彼としては、締め切りまでに装置を完成させなくてはいけない、というプレッシャーがある一方、”D”の意見を全て無視し、チームに不和をもたらすわけにもいかない。彼はそんな悩みを、プロジェクト一日目の夜に中華料理屋で行われたミーティングで吐露したのでした。この悩みに、”E”は熱い言葉で応えました。
「俺たちはTask Managerの『さ』を信じているから、自分の決定に自信を持ってくれ。明日も一緒に頑張ろう。」
肩を震わせる「さ」。「え!?」と思って彼の顔を見ると、彼は眼鏡をはずし、指で涙を拭っていました。温かく彼の肩を叩くチームメイトたち。そして、明日も頑張ろうと乾杯をしたわけです。

翌日。かつ、プロジェクト最終日。”D”はアイデアを出すだけではなく、積極的に手を動かすようになりました。この日からファシリテーターも作業に参加することが許されて、図工が大好きだった僕は、我を忘れて没頭したわけです。分業もうまくいき、チームは時間内に、非常に再現性の高い装置を完成させることが出来ました。テーマは”Bridge”。球が転がると橋が架かり、その上を自動車が滑り落ちる仕掛けです。個人や異文化間の溝に橋を架ける、という、まさにこのチームが十日間で体験したことを、装置で表現したわけです。

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しかし、装置が完成しても、真面目な”D”の苦悩は続きました。私は結局、紙にアイデアを描いただけで、実際に自分が作った部分は、全体のほんの少しでしかない。自分は全くチームに貢献できなかった、と。その日の終わり、終電近く、満員の山手線の中で行われたの反省ミーティングで、「け」が”D”に対し、精一杯の英語でこんなことを言いました。
「僕は”D”に謝らなくてはいけない。”D”にはアイデアがあって、僕には技術があった。僕がもっと上手いやり方をすれば、もっと”D”のアイデアを生かすことが出来たのかもしれない。」
涙を流す”D”。それに連られ、男泣きする「け」。二人はハグをし、チームメイトは肩を叩く。満員の山手線、周りの乗客から見れば怪しいことこの上なし。しかしそれが、このフォーラムのクライマックスだったと言っても過言ではないでしょう。

翌日、装置を科学技術未来館で発表したのち、最後の飲み会をして、フォーラムは解散。十日間一緒にすごした仲間が、ひとり、またひとり、大きな荷物を抱えて、”See you again!”と言って去っていくのは何とも悲しかった。そう、気付いてみれば、彼らと初めて会ったのは、たった十日前なのです。なのに、もう何年も前から知っていた仲間のような気がしました。

このように、お涙頂戴のB級青春ドラマ顔負けの、熱く、濃密で、そしてベタな物語を、いい年をした学生たちが大真面目で作り上げたのが、STeLA Leadership Forum 2007の十日間です。人はこのベタで出来すぎな物語を滑稽だと笑うでしょうか。どうぞ笑って下さい。誰が何と言おうと、我々がこの十日で得た経験は他では決して得がたいものだったし、僕もこの素晴らしい物語を端から見ていて、参加者以上に学ぶことが多かった。参加者の皆様、ファシリの仲間、裏方で働いてくれた皆さん、フォーラムには準備出来なかったけれども準備に奔走してくれたみんな、本当に、本当にありがとうございました。


最後にすこし自慢。”STeLA”という名前は、僕の発案です。”Science and..”の意味に加え、ラテン語のStella(星)、英語のstela(記念碑)の意味もかかっている。って偉そうに言って、もちろん後付けですが(笑)なにはともあれ、”STeLA”という言葉が、参加者、実行委員併せて80人近くを束ねる合言葉になった。新聞にも載った。飲み会では「ステラコール」が起こった。自分の言葉が、こんなにもみんなに受け入れてもらえて、本当に嬉しい限りでした。重ね重ね、みんな本当にありがとう。この言葉が、来年以降も受け継がれていくことを、切に願います。

STeLA Webサイトマスコミにもちょくちょく紹介されました

友人たちの関連ブログ

2007/8/17 Friday

遂にフィニッシュ、修士論文!!

Filed under: やったぜ!!, 留学 — ono @ 13:25:26

遂にフィニッシュ、修士論文!!

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身一つでアメリカに乗り込んで丸二年。本当に山あり谷ありだった。日本の同級生たちに、半年の遅れをとっての修士卒業。やー実に感慨深い。

本当にいろいろと苦労した。指導教官がみつからない。授業の宿題を消化しきれない。主張したいことの半分も伝わらない。でも、そうして人より苦労した分、人よりいい経験がつめたはず。思い返してみて、本当に分厚い二年間だった。

これで一区切り。明日の朝の飛行機で日本へ。アメリカに帰ってきたら、別の指導教官の下で、PhDを目指します。

2006/10/19 Thursday

42.195km 完走!!

Filed under: やったぜ!! — ono @ 12:42:03

やりました!

先の日曜、Bay State Marathon @ Lowell. 人生初の42.195kmを、3時間57分51秒で走りきりました!!!

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(↑Lowellはボストンの郊外の小都市。かつては水車を動力とした繊維工業で栄えたが、蒸気機関の普及で没落した。)

我が家はチャールズ川のほとり、Massachusetts Ave. が走るHarvard Bridgeのたもとにあります。こっちの人はとっても走るのが好き。朝昼晩、老若男女問わず、川原を向こうへ、こっちへ走っています。

僕がそれに加わったのは2月。激しい肩こりに少しは効果があるかと思い、週に一度、4kmを走り出しました。初めはフルマラソンなんて考えもしなかったのですが、4月のBoston Marathonに刺激され、何となく目指してみようか、と思い出しました。村上春樹も走れるなら、自分も走れるだろう、と。

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(↑現在のLowellは観光都市)

本格的なトレーニングは、春学期が終わった5月終わりから。週に2-3回のペースで、平日は4km or 7kmでインターバルorビルドアップ・ラン、週末は15kmや20km. ハーフまでは順調に距離が伸び、これはマラソンも楽勝か、と思われたのですが…。

壁は20kmと30kmの間にありました。25kmを過ぎると、足がコチコチになり、動かなくなるのです。レース4週間前に初めて挑戦した 33.5kmで3時間45分。最後の5kmはほぼ歩き。しかしこの後の激しい筋肉痛と超回復のおかげで、2度目の33.5kmは3時間10分に短縮。

レース一週間前からは、長い距離は走らず、毎朝4km。 本番の目標は、とにかく完走、そして4時間切り!

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(↑New Englandの10月は紅葉の季節。)

レース当日はきれいな青空。スタートは朝8:30。 5時に起き、持ってきたご飯と鮭フレーク、味噌汁で和な朝食。

Bay State Marathonは地方の小さな大会で、参加者は千人強。スタート20分くらい前になると、わらわらと人がスタートラインに集まりだした。

市長のお言葉、続いて国歌斉唱。この国はどこでも国歌を歌う。しかし逆に、日本ほど国歌を歌わない国の方が珍しいのでは、と思ったり。

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号砲でスタート。ペース設定は5分/km。コースは川に沿ったダブル・ループ。ニューイングランドは紅葉の盛り。少し寒いが、マラソンには適温だ。よく眠れて疲れはなく、体も軽い。この上なく順調な滑り出し!

と思えたのもつかの間、予想外の事態が…レース前に出したりなかったのか、トイレに行きたくなった…しかも大小ダブルで!!男は我慢、と思い、一つ目のトイレ・ポイントは通過。しかし、7,8kmで腰の前面・後面への圧力が限界に…。一歩走るたびに、足から伝わる振動が今にも門をこじ開けそうになる。結局、11kmでたまらずトイレ・イン。

run2.jpgこの件以外は万事順調。ハーフを1:49で通過した。しかし、山はハーフを越えた後でやってきた。急に足の疲れを感じ、ペースが落ちだす。無理にペースを保とうとするのが辛い。しかも…ここでウ●チの第二波が…。やむをえず、28kmで2度目のトイレ・イン。4分をかけ、今度こそしっかり出し切った!!

30kmを過ぎると、さすがにペースが落ち、6分/kmくらいに。平坦な道のはずなのに、どこまでも上り坂に感じる。しかしここまで来ればカウントダウンだ。9km, 8km, 7km…確実に距離は縮まっていった。

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ラスト3kmで3:36。ここで、3:50切りを狙ってスパート。これが見事に失敗だった。すぐに足が止まり、走れなくなった。手の指先や頬が痺れ、心拍が恐ろしく速い。歩くのさえ辛い。完全にバテた。しかし、幸運なことにゴールはすぐそこだ。向こうに見えている、赤い鉄橋を渡ったすぐ先の野球場がゴール。歩いてでもいいからゴールしようと思った。

鉄橋を渡り切り、球場に入ったときには、もう泣きそうになった。カッコをつけて、球場の中だけは走った。友達の顔が見えた。ゴールの時計はまだ3時間台。ゴールのゲートをくぐる。メダルと水を渡される。座り込む。通る人が、”Great job”と肩を叩いてくれる。

完走した。

その後3日間、激しい筋肉痛に苦しんだ。特に階段を下りるのが辛い。しかし、部屋の壁にかかるメダルを見たら、その痛みが誇らしく感じた。

次回への教訓:レース前に、出すべきものを出し切る。。。。。

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